トーリー党の一員としてとは? わかりやすく解説

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トーリー党の一員として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 07:46 UTC 版)

ジョン・グロバム・ハウ (1657-1722)」の記事における「トーリー党の一員として」の解説

1692年3月15日メアリー2世宮内副長官から解任された。解任理由は「メアリー2世自身愛していると勘違いして不適切発言をした」「不適切発言説はわざと流され理由であり、実際にホワイトホール自宅ジャコバイトとの会合開催したため」という2つの説があり、『英国議会史(英語版)』では「庶民院における宮廷支持やる気が薄い」(lack of commitment to the Court in the Commons)ことが理由1つとされた。理由がどうであれ、ハウ解任機にウィリアム3世への復讐心を募らせホイッグからトーリー転じカントリ派の1人として目されるようになった。ただし、トーリーへの転身一気行われたわけではなく1693年1月カトリック信者への地税二重課税とりやめることに賛成しフランス海岸襲撃失敗について海軍本部委員会過失責めなかったなどホイッグ党色の濃い行動引き続き見られ、『英国議会史』はトーリー党転身した正確な時期特定が困難であるとした。 1692年11月ホワイトホール召使い切りつけて傷を負わせたとして裁判所への出頭命令を受け、裁判所で罪を認めて12月恩赦受けた1694年2月三年議会法案を支持ハックニーキャリッジへの課税主張するなどカントリ派トーリー党の一員としての行動みられるようになり、演説内容年を追うごとに無遠慮になっていったため、政敵から宮廷職を失ったことを揶揄され「不平ジャック」(Jack the Grumbletonian)のあだ名呼ばれた同年11月には政府批判強め多く調査委員会参加した1695年イングランド総選挙では1690年選挙比べて代替わり多くポール死去してヘンリー・アイアトン英語版)(ホイッグ党所属)が遺産継承したほか、ニューバラ伯爵死去してサー・ベンジャミン・バサースト(英語版)(トーリー党所属)がサイレンセスターでの領地購入したバサースト最初アイアトンとの選挙協力検討したが、最終的に1695年選挙での不出馬決め代わりにハウ支持した第2代準男爵サー・ジョン・ガイズ(英語版)(ハウ姉妹の夫)はハウからの支持当てにして息子ジョン・ガイズ(英語版)を出馬させたが、ハウトーリー党転じていたため親族現職議員のリチャード・グロバム・ハウとの選挙協力決め結局ガイズアイアトン協力する形で出馬したガイズ未成年支持得られず、ハウが(トーリー党所属にもかかわらず国教忌避者の票を得たため、結果ハウ305票、リチャード・グロバム・ハウ294票、ガイズ235票、アイアトン200票で現職議員2名が再選した総選挙直後より大同盟戦争戦争継続反対し、陸軍規模削減賛成したほか、ウィリアム3世による商務庁創設対し庶民院同様の委員会創設すべきである主張して対抗した1696年ウィリアム3世暗殺未遂事件首謀者第3準男爵サー・ジョン・フェンウィック(英語版)の私権剥奪めぐって野党同調した同年グロスタシャー治安判事から退任した1698年イングランド総選挙ではサイレンセスター落選したが、代わりにグロスタシャー選挙区英語版)から出馬して当選した戦争終結に伴い1698年12月陸軍海軍規模削減賛成政府常備軍人数を7千から1万増やそうとしたときは本土防衛宗教を守ることに常備軍不要主張、「適切な統治をする君主はそれら(常備軍)を欲さず、不適切統治をする君主ジェームズ王と同じ末路を辿る」(no prince that governs well wants them, if ill, his fate will be like King James’s)と述べた。そして、軍の規模削減可決されると、職を失った士官半給受け取れるようにした。1699年2月ギニー価値引き下げ対すグロスタシャー借地人の意見述べているとき、同じくグロスタシャー選出第2代準男爵サー・リチャード・コックス(英語版)(ホイッグ党所属)から自身グロスタシャーにおける領地少なさ指摘された。領地少ないため、意見聞ける借地人も少なく、したがってハウグロスタシャー借地人を代表する資格がないという理屈だったが、ハウは「彼が借地人の数を喜んで教えてくれたので、より多くの票を得たのはだれかについても知りたいです」([since] that gentleman is pleased to tell me of the number of his tenants, I desire to know who has most votes, he or I)と反撃コックスを黙らせた。一方トーリー党ロバート・ハーレーハウ行動予測難しくなっていると判断して野党活動妨げならないようハウ刺激しないようにし、北部担当国務大臣ジェームズ・ヴァーノン(英語版)もハウ波風を立てる能力はあるものの、性格荒々しすぎてハーレー野党には役に立たない判断した1700年夏、グロスタシャー治安判事復帰した1701年1月イングランド総選挙ではコックス落選させるために別のホイッグ党候補との協力模索したが、トマス・スティーブンス(Thomas Stephens)も第3準男爵サー・ジョン・ガイズ(英語版)もコックス支持表明した選挙ハウコックス初代準男爵サー・ラルフ・ダットン(ホイッグ党所属)の三つ巴になり、ダットンハウとの協力拒否して独自で立候補した結果ハウ1,709票、コックス1,389票、ダットン1,248票で現職議員2人再選した。この選挙により庶民院トーリー党多数派になったが、ハウとその支持者与党入れず引き続き政府敵対したハウ議会で「これは条約とは呼べない。3人の泥棒糾合して盗み働いているだけ」(I cannot call this a treaty, but a combination of three to rob the fourth)と第二次分割条約批判ウィリアム3世世論怒り買ったが、議長就任したハーレーは「ハウの声が小さく、私が病気で(ハウとの)距離も遠かったため」(had a low voice, he was ill and at a distanceハウ演説聞こえなかったとして追及却下したまた、王室費削減をめぐり、ハウ10万ポンド減を主張したのに対し同じくトーリー党属する第4代準男爵サー・エドワード・シーモア(英語版)は政府示し合わせ折衝案を提示ハウ説得受けてシーモアの案を支持した1701年11月イングランド総選挙では議会機転きかないみなされ有権者支持失い、さらにパンフレット親仏派のジャコバイト中傷されたため、得票数3位(1,475票)で落選した

※この「トーリー党の一員として」の解説は、「ジョン・グロバム・ハウ (1657-1722)」の解説の一部です。
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