トーリー党の一員として
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「ジョン・グロバム・ハウ (1657-1722)」の記事における「トーリー党の一員として」の解説
1692年3月15日、メアリー2世の宮内副長官から解任された。解任の理由は「メアリー2世が自身を愛していると勘違いして、不適切な発言をした」「不適切発言説はわざと流された理由であり、実際にはホワイトホールの自宅でジャコバイトとの会合を開催したため」という2つの説があり、『英国議会史(英語版)』では「庶民院における宮廷支持のやる気が薄い」(lack of commitment to the Court in the Commons)ことが理由の1つとされた。理由がどうであれ、ハウは解任を機にウィリアム3世への復讐心を募らせてホイッグからトーリーに転じ、カントリ派の1人として目されるようになった。ただし、トーリーへの転身は一気に行われたわけではなく、1693年1月にカトリック信者への地税二重課税をとりやめることに賛成し、フランスの海岸襲撃失敗について海軍本部委員会の過失を責めなかったなどホイッグ党色の濃い行動も引き続き見られ、『英国議会史』はトーリー党に転身した正確な時期の特定が困難であるとした。 1692年11月にホワイトホールで召使いに切りつけて傷を負わせたとして裁判所への出頭命令を受け、裁判所で罪を認めて12月に恩赦を受けた。 1694年2月に三年議会法案を支持、ハックニーキャリッジへの課税を主張するなどカントリ派トーリー党の一員としての行動がみられるようになり、演説の内容も年を追うごとに無遠慮になっていったため、政敵から宮廷職を失ったことを揶揄され「不平家ジャック」(Jack the Grumbletonian)のあだ名で呼ばれた。同年11月には政府批判を強め、多くの調査委員会に参加した。 1695年イングランド総選挙では1690年の選挙と比べて代替わりが多く、ポールが死去してヘンリー・アイアトン(英語版)(ホイッグ党所属)が遺産を継承したほか、ニューバラ伯爵が死去してサー・ベンジャミン・バサースト(英語版)(トーリー党所属)がサイレンセスターでの領地を購入した。バサーストは最初アイアトンとの選挙協力を検討したが、最終的には1695年の選挙での不出馬を決め、代わりにハウを支持した。第2代準男爵サー・ジョン・ガイズ(英語版)(ハウの姉妹の夫)はハウからの支持を当てにして息子ジョン・ガイズ(英語版)を出馬させたが、ハウはトーリー党に転じていたため親族で現職議員のリチャード・グロバム・ハウとの選挙協力を決め、結局ガイズはアイアトンに協力する形で出馬した。ガイズが未成年で支持を得られず、ハウが(トーリー党所属にもかかわらず)国教忌避者の票を得たため、結果はハウ305票、リチャード・グロバム・ハウ294票、ガイズ235票、アイアトン200票で現職議員2名が再選した。 総選挙直後より大同盟戦争の戦争継続に反対し、陸軍の規模削減に賛成したほか、ウィリアム3世による商務庁創設に対し庶民院も同様の委員会を創設すべきであると主張して対抗した。1696年ウィリアム3世暗殺未遂事件の首謀者第3代準男爵サー・ジョン・フェンウィック(英語版)の私権剥奪をめぐっても野党に同調した。同年、グロスタシャーの治安判事から退任した。 1698年イングランド総選挙ではサイレンセスターで落選したが、代わりにグロスタシャー選挙区(英語版)から出馬して当選した。戦争終結に伴い、1698年12月に陸軍と海軍の規模削減に賛成、政府が常備軍の人数を7千から1万に増やそうとしたときは本土防衛や宗教を守ることに常備軍は不要と主張、「適切な統治をする君主はそれら(常備軍)を欲さず、不適切な統治をする君主はジェームズ王と同じ末路を辿る」(no prince that governs well wants them, if ill, his fate will be like King James’s)と述べた。そして、軍の規模削減が可決されると、職を失った士官が半給を受け取れるようにした。1699年2月、ギニーの価値引き下げに対するグロスタシャーの借地人の意見を述べているとき、同じくグロスタシャー選出の第2代準男爵サー・リチャード・コックス(英語版)(ホイッグ党所属)から自身のグロスタシャーにおける領地の少なさを指摘された。領地が少ないため、意見を聞ける借地人も少なく、したがってハウにグロスタシャーの借地人を代表する資格がないという理屈だったが、ハウは「彼が借地人の数を喜んで教えてくれたので、より多くの票を得たのはだれかについても知りたいです」([since] that gentleman is pleased to tell me of the number of his tenants, I desire to know who has most votes, he or I)と反撃、コックスを黙らせた。一方、トーリー党のロバート・ハーレーはハウの行動の予測が難しくなっていると判断して、野党活動の妨げにならないようハウを刺激しないようにし、北部担当国務大臣ジェームズ・ヴァーノン(英語版)もハウに波風を立てる能力はあるものの、性格が荒々しすぎてハーレー派野党には役に立たないと判断した。1700年夏、グロスタシャーの治安判事に復帰した。 1701年1月イングランド総選挙ではコックスを落選させるために別のホイッグ党候補との協力を模索したが、トマス・スティーブンス(Thomas Stephens)も第3代準男爵サー・ジョン・ガイズ(英語版)もコックス支持を表明した。選挙はハウ、コックス、初代準男爵サー・ラルフ・ダットン(ホイッグ党所属)の三つ巴になり、ダットンがハウとの協力を拒否して独自で立候補した結果、ハウ1,709票、コックス1,389票、ダットン1,248票で現職議員2人が再選した。この選挙により庶民院はトーリー党が多数派になったが、ハウとその支持者は与党に入れず、引き続き政府と敵対した。ハウは議会で「これは条約とは呼べない。3人の泥棒が糾合して盗みを働いているだけ」(I cannot call this a treaty, but a combination of three to rob the fourth)と第二次分割条約を批判、ウィリアム3世や世論の怒りを買ったが、議長に就任したハーレーは「ハウの声が小さく、私が病気で(ハウとの)距離も遠かったため」(had a low voice, he was ill and at a distance)ハウの演説が聞こえなかったとして追及を却下した。また、王室費削減をめぐり、ハウが10万ポンド減を主張したのに対し、同じくトーリー党に属する第4代準男爵サー・エドワード・シーモア(英語版)は政府と示し合わせた折衝案を提示、ハウは説得を受けてシーモアの案を支持した。 1701年11月イングランド総選挙では議会で機転がきかないとみなされて有権者の支持を失い、さらにパンフレットで親仏派のジャコバイトと中傷されたため、得票数3位(1,475票)で落選した。
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