トーリー党政権で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 06:53 UTC 版)
「ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)」の記事における「トーリー党政権で」の解説
1701年にウィルトシャーのウートンバセット選挙区(英語版)から庶民院議員に選出される。トーリー党に所属した。政界入りしたシンジョンはロバート・ハーレー(後の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵)に接近した。議会に内密で国王ウィリアム3世の命令でスペイン分割条約を結んだホイッグ党幹部の弾劾に参加、ジャコバイトに反対の立場を取った。 1702年にアン女王が即位。同年と1704年にトーリー党が議会に提出した非国教徒を公職から排除する便宜的国教徒禁止法案に賛成し政争に加わり、1704年に政府首班でトーリー党穏健派のシドニー・ゴドルフィンが法案を推進する急進派を政権から排除してハーレーら穏健派に交代させると戦時大臣に就任、ハーレーと親密になっていった。1708年にハーレーがゴドルフィンと対立して政権を去った時は行動を共にして辞任、1710年にハーレーがゴドルフィン政権を打倒して実施した総選挙ではバークシャー選挙区(英語版)から選出されて復帰、大蔵卿として政権を奪ったハーレーの下で北部担当国務大臣に任じられ閣僚として外交、内政を担当することになった。 政権入りしてからはトーリー党の主張を取り入れホイッグ党の排斥を狙い、1711年に議員資格に一定の土地を必要とする法案(地主主流のトーリー党に有利)とイングランド国教会を多数建設する法案を成立、ケベック遠征を計画・実行させアンの歓心を得てオックスフォード伯(ハーレー。1711年にこの爵位に叙された)に次ぐ有力者にのし上がった。 1712年にオックスフォード伯がスペイン継承戦争終結のためフランスとイギリスの単独講和を図るようになると、交渉役の初代ジャージー伯爵エドワード・ヴィリアーズの急死に伴い後任に任命、トルシー侯ジャン=バティスト・コルベールと交渉に入り条件を纏める一方で講和の障害と見られていたイギリス軍総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルを罷免、後任の司令官の第2代オーモンド公ジェームズ・バトラーに対してフランスの交戦停止を命令、1712年6月に休戦交渉を成立させるとイギリス軍を大陸から引き上げさせた。同年7月にボリングブルック子爵に叙爵され貴族院へ移籍。8月にフランスへ渡り休戦の延長条約に署名して帰国、任務を引き継いだ初代シュルーズベリー公チャールズ・タルボットが講和交渉を結び1713年のユトレヒト条約成立に繋がり、トーリー党は絶頂期を迎えた。 だが、オックスフォード伯との仲は次第に険悪となり、政界の主導権を巡って争うようになった。先の叙爵ではオックスフォード伯の妨害で本来伯爵となるはずだった所を子爵となった経緯でオックスフォード伯を恨むようになり、講和交渉の途中でオックスフォード伯の差し金で交代させられたり、ケベック遠征を中止させられそうになるなど対立は深まっていった。また、アンの後継者でも両者は一致せず、オックスフォード伯がアンの又従兄に当たるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒを選んだのに対して、ボリングブルック子爵はアンの異母弟でジャコバイトが擁立するジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを志向したため党内分裂を招いた。ただしトーリーは国教会死守が党是の一つであったので、ボリングブルック子爵もジェームズにカトリック信仰を捨てるよう説得にあたっていたが、ジェームズはそれを拒否していた。 1713年のジョナサン・スウィフトの仲裁にも耳を貸さずオックスフォード伯が指導力衰退でアンの信頼を損ねる一方でアンに接近していき、1714年7月27日にオックスフォード伯が大蔵卿を罷免されたが、ボリングブルック子爵も公金横領の発覚で大蔵卿に選ばれず、7月30日にシュルーズベリー公が大蔵卿に就任、閣僚会議でも途中参加した第6代サマセット公チャールズ・シーモアと第2代アーガイル公ジョン・キャンベルに牽制され政権掌握に失敗した。
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