トーリーの政論家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 21:52 UTC 版)
「ジョナサン・スウィフト」の記事における「トーリーの政論家」の解説
彼は、野党のトーリー党の指導力がより彼の主張に共鳴することに気付き、トーリー党が1710年に与党となった時、『試験官』の編集者として彼らの主張を支えるために採用された。1711年、スウィフトは政治パンフレット「同盟国の行為」を発行し、フランスとの長引くスペイン継承戦争を終わらせることのできないホイッグ政権を攻撃した。 スウィフトはトーリー党の取り巻きの1人となり、しばしば外務大臣(1710年 - 1715年)のヘンリー・シンジョン(ボリングブルック子爵)と大蔵卿(1711年 - 1714年)のロバート・ハーレー(オックスフォード=モーティマー伯)との間で調停者としての役割を演じた。スウィフトはこの困難な時にあっての自分の経験と思考を長い一連の手紙に記録してエスター・ジョンソンに送り、後にまとめて『ステラへの消息』として発行した。しかし、ハーレーとシンジョンとの間の敵意は止まず、王位継承問題で決定的に分裂してしまい、1714年にハーレーは指導力の低下からアン女王に見限られ大蔵卿を罷免、同年のアンの死とジョージ1世の即位に伴ってホイッグ党が与党の座を奪還、ハーレー・シンジョンらトーリー党の指導者達はフランスとの秘密交渉を行った謀反により裁判にかけられ、ハーレーはロンドン塔へ投獄、シンジョンはジャコバイトと結託して私権を剥奪された。こうしてトーリー党は没落、ホイッグ党による長期政権の幕開けとなった。 さらにロンドンにおけるこの数年の間で、スウィフトはヴァナミリー家と懇意になり、娘の一人エスターとも親密になった。しかしもう一人の父のない娘と曖昧な関係によりスウィフトの伝記を混乱させている。スウィフトはエスターに「ヴァネッサ」の愛称を与え、彼女を彼の詩『キャデナスとヴァネッサ』の主要な登場人物に配した。その詩と彼らの書簡からは、エスターがスウィフトに夢中になり、それで彼は彼女の愛情に報いたものの、後悔してのちに縁を切ろうとしたことが示唆される。エスター・ヴァナミリーは1714年にスウィフトを追ってアイルランドに行き、そこでことによるとエスター・ジョンソンをも含む対面が果たされたようである。エスター・ヴァナミリーは1723年に35歳で死去した。 トーリー党政権の凋落の前、スウィフトはイングランド教会への赴任・昇進を望んでいた。しかし、アンはスウィフトが友人のサマセット公チャールズ・シーモアの妻エリザベス・シーモアを戯詩『ウィンザーの予言』で激しく非難したためスウィフトを疎ましく思うようになり、こうした努力を妨害した。結果、スウィフトはダブリンの聖パトリック寺院の首席司祭に転任、ホイッグ党の復帰により昇進の望みを完全に絶たれた。
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