ロンドン時代とは? わかりやすく解説

ロンドン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 20:28 UTC 版)

アンソニー・ヴァン・ダイク」の記事における「ロンドン時代」の解説

イングランド王チャールズ1世イギリス歴代君主なかでも特に芸術興味示し美術品収集した人物であり、美術品自身威厳増大することに寄与する考えていた国王だった。1628年チャールズ1世マントヴァ公カルロ1世売却余儀なくされた優れた美術コレクション購入したほか、1625年戴冠し以来諸外国著名な画家たちイングランドへ招聘しようと試みている。1626年イタリア人画家オラツィオ・ジェンティレスキイングランドへ招くことに成功し、のちにオラツィオの娘で同じく画家だったアルテミジア・ジェンティレスキイングランド迎え入れたルーベンスチャールズ1世イングランドへ招きたい熱望していた画家で、1630年外交官としてイングランド訪れたルーベンス絵画制作依頼したその後にもチャールズ1世はさらにルーベンス作品アントウェルペンから輸入し購入している。ルーベンスは9ヶ月イングランド滞在しチャールズ1世から歓待されナイト称号まで授与されている。当時イングランド宮廷肖像画家だったダニエル・マイテンスは、あまり優れているとはいえないフランドル人画家だった。チャールズ1世は背が低く(5フィート以下だったといわれる)、チャールズ1世肖像画を描く画家にとって、力強く威厳満ちた君主として描き出すためには相当な技量必要だったヴァン・ダイク1620年以来イングランド宮廷との関係が続いており、チャールズ1世絵画収集代理人の手助け務めることもあった。自身の作品チャールズ1世譲渡することもあり、それらの作品中にはチャールズ1世代理人とともに描いた自画像1623年)、タッソ恋愛叙情詩解放されたエルサレム』に題材をとった神話登場人物リナルドアルミーダ描いた絵画1629年ボルチモア美術館)、王妃依頼描いた宗教画などがあった。また、ヴァン・ダイク1632年チャールズ1世の姉のボヘミア王エリザベス・ステュアート肖像画亡命先デン・ハーグ描いている。1632年4月ヴァン・ダイクロンドン再訪し、間もなく宮廷迎え入れられて、7月にはナイト爵と「サー」の称号200ポンド年金主席宮廷画家 (en:Principal Painter in Ordinary) の地位授与された。さらにヴァン・ダイクが描く絵画高値買い上げられており、チャールズ1世5年の間年金支払う必要がなかったほどで、以降ヴァン・ダイクが描く絵画の価格下落することはなかった。ロンドン中心部ブラックフライアーズ邸宅工房与えられ、この場所がシティ・オブ・ロンドンのちょう外側だったために、シティ芸術家ギルド独占していた絵画専売権影響を受けることもなかった。そのほか王族以外使用禁止だったエルサム宮殿 (en:Eltham Palace) の続き部屋静養所としてヴァン・ダイク提供されている。ブラックフライアーズ工房には国王夫妻がよく訪れ、後に国王夫妻専用道路敷設されるほどだった。ヴァン・ダイク存命中にこのような厚遇受けた画家は他に存在しなかった。 ヴァン・ダイクイングランド大きな成功収め国王チャールズ1世王妃ヘンリエッタ王子王女たちの肖像画次々描いた肖像画多くには複数ヴァージョンがあり、諸外国との外交儀礼用の贈答品や、次第議会軋轢深めていく国王支持者たちへの下賜品として使用されている。ヴァン・ダイクチャールズ1世肖像画40程度ヘンリエッタ肖像画30程度ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース肖像画9点その他の宮廷人の肖像画多数描いた考えられている。自画像さらには自身愛人マーガレット・レモンの肖像画描いたヴァン・ダイク権力者権威威光などの描写控えめにして、くつろいだ雰囲気優雅さ気楽さとが入り混じった表現肖像画描いたこのようなヴァン・ダイク絵画表現18世紀終わりになるまで、イングランド肖像画多大な影響与え続けることになる。肖像画背景には豊かな自然の風景画描かれていることも多い。ロイヤル・コレクション所蔵する騎乗するチャールズ1世描いたチャールズ1世騎馬像』(1637年 - 1638年頃)は、ティツィアーノ傑作カール5世騎馬像』(1548年)を下敷きにした名作だが、チャールズ1世肖像画でより印象的な作品は、ルーヴル美術館所蔵する馬から降りたチャールズ1世描いた英国王チャールズ1世肖像』(1635年頃)である。「意図的にくつろいだ構成がとられており、一見するとイングランド国王ではなく田園地帯散策している田舎紳士見えるかもしれない。しかし疑いようもなくチャールズ1世天性統治者としての完璧な威厳満ちた表現描かれている」と評価されている。 ヴァン・ダイク肖像画描かれイングランド上流階級人物の多く国王忠誠を誓う伝統的な騎士党風のスタイル衣装描かれているが、実際にヴァン・ダイク主要な貴族階級パトロンたち、例えば第4代ベッドフォード伯爵フランシス・ラッセル英語版)、第10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシー、第4代ペンブルック伯フィリップ・ハーバートなど、ヴァン・ダイク死後勃発した清教徒革命イングランド内戦)でチャールズ1世敵対する円頂党となった人々も多い。 イングランドではヴァン・ダイク外国人だったが事実上イングランド国民同然であり、1638年にはスコットランド貴族でルースヴェン卿の称号持っていたこともあるパトリック・ルースヴェンの娘メアリ結婚したメアリ1639年から1640年まで王妃付き女官 (en:Lady in waiting) に任命されており、これはチャールズ1世ヴァン・ダイクイングランド引き留めておくための対策だったと考えられている。ヴァン・ダイク1634年のほとんどの時期イングランド離れてアントウェルペン在住しており、イングランド内戦勃発間際1640年から1641年には数ヶ月フランドルフランスで過ごしている。1640年にはフランスで投獄から解放されたばかりポーランド王弟ヤン・カジミェシュと行動をともにしており、ヴァン・ダイク描いたヤン・カジミェシュの肖像画現存している。ヴァン・ダイク1641年の夏に再びイングランド離れ滞在先のパリ重病患って急遽ロンドンへ戻されたが、間もなくブラックフライアーズ自宅息を引き取った未亡人となったメアリはのちに準男爵リチャード・プライズと再婚している。ヴァン・ダイクメアリ愛人との双方に娘をもうけており、死去したときメアリとの間に生まれた娘はわずか生後10日だった。どちらの娘も養子出され最終的に二人ともフランドルその生涯閉じているヴァン・ダイクロンドン大火焼失する以前セント・ポール大聖堂 (en:Old St. Paul's Cathedral) に埋葬されチャールズ1世がその墓碑銘設置した1641年信心深い、よきカトリック教徒だったアンソニー病を得イングランドへ戻ってきたが、その後間もなく亡くなってしまった。 国王宮廷の深い悲しみ、さらに芸術愛するものすべて嘆きのうちにセント・ポール寺院埋葬された。 生前多くの財を手にしたが、ヴァン・ダイク残した財産はわずかである。その豪奢な暮らしぶり画家というよりは王族のようであった。 — ヴァン・ダイク墓碑銘

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ロンドン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/27 14:49 UTC 版)

ロバート・チャップマン (牧師)」の記事における「ロンドン時代」の解説

その後ロバート15歳の年にロンドンへ引越しし、法律事務所見習いとして働き始めた。そして見習い始めてから5年後1823年ロバート正式に弁護士となった。また同年ロバートはジョン・ストリート礼拝堂にてジェームズ・ハリントン・エヴァンズの説教聞いて福音出会い回心した。エヴァンズ牧師であったが、非国教会的な思想持ち主で、教派縛られない自由な発想活動行っていた。 ロバート信仰にめざめ、エヴァンズ思想触れたことをきっかけに、ロンドン貧し人々のもとへ訪問し援助を行うようになった。しかしその一方でロバート当初弁護士として活躍していたために、豊かな生活を送る名士一員してみなされていたが、ロバート考え理解しない友人たち彼の変化付いていけず、彼に寄り付かなくなっていった。だが、ロバートのいとこの夫、パグスレーはロバート影響受けて信仰目覚めるとともに、バーンスタプルの貧し人々のために活動始めた。なお、パグスレーも弁護士であった。また1831年ロバートはこのバーンスタプルの地に招かれ地域住民のために伝道行いもした。 そしてロバートは再びロンドンに戻ると、自分時間すべてをキリスト教伝道活動捧げるべく召命されているとの確信を抱くようになり、また、弁護士という自らの職業潜む幾つかの点が、自らの信仰にとって快いものではなくなってきていることに気付ようになった。こうして1832年ロバートはバーンスタプルにあるエベネツァー改革バプテスト教会牧師招かれる機会得たことをきっかけに、お金儲けもできて社会的に出世きたはず弁護士の職を手放し、彼は正式にその教会牧師となった

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ロンドン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 03:23 UTC 版)

ヨハン・クリスティアン・バッハ」の記事における「ロンドン時代」の解説

1762年ミラノ大聖堂に対して1年間休職」を申し出て 渡英したが、そのままロンドン住んだミラノ大聖堂の職は1763年12月正式に辞した。兄カール・フィリップ・エマヌエルは、異母弟オペラ界への進出カトリックへの改宗、そしてドイツ捨ててつかんだ世界的な成功を、先祖の裏切りと見てたらしい。 それからの20年間、ヨハン・クリスティアン・バッハイングランドで最も有名な音楽家「ジョン・クリスティアン・バック」であった。その舞台作品国王劇場上演され、非常に暖かく歓迎された。第1作の『オリオン Orione 』は1763年2月19日初演され大成功であった。この作品クラリネット用いた最初音楽作品でもあった。国王劇場では同年『ザナイダ』を、1765年に『シリアハドリアヌス帝』を、1767年に『カラクタクス』を上演している。ヨハン・クリスティアン最後オペラ・セリアスキピオ慈悲 La Clemenza di Scipione 』(1778年)はロンドン聴衆何年間も人気があり、モーツァルトの『皇帝ティートの慈悲 La Clemenza di Tito 』(1791年)と興味深い類似点見せている。 ヨハン・クリスティアン・バッハイギリス王妃シャーロット専属音楽師範となり、王妃ならびに王子王女たちに音楽の稽古をしたり、国王ジョージ3世フルートを吹くときに伴奏することが任務となった1764年から、父親同士親友であったカール・フリードリヒ・アーベルとともに定期公演(バッハ・アーベル・コンサート)を催すと、たちまちロンドン聴衆流行娯楽一つとなった。この連続演奏会は質が高くバッハ没する1782年まで長年続けられたために、ヨーロッパ公開演奏会発達重要な働きをした。バッハアーベルは、ジョヴァンニ・ガッリーニ(en)とともに1774年ハノーヴァー・スクエア・ルームズを建て、ここでコンサート行ったバッハ没後は、ヴァイオリニストヴィルヘルム・クラーマー中心として、同じハノーヴァー・スクエアでプロフェッショナル・コンサートがその後継として開催されるようになった。このプロフェッショナル・コンサートのライバルヨハン・ペーター・ザーロモンコンサートであった。 しかしハノーヴァースクエアの建設かかった多額の費用により、コンサート負債苦しむようになった。 ヨハン・クリスティアン・バッハピアノ演奏知られチャールズ・バーニーによると、すべてのハープシコード製造者ピアノ機構試してみるほどの影響及ぼしたという。 1772年には、マンハイム呼ばれて新作オペラ『テミストクレ』を上演し成功おさめた1776年でもマンハイムで『ルーチョ・シッラ』を上演している。 1764年、父レオポルトに連れられてロンドン訪れていたモーツァルト少年仲良くなるモーツァルトはヨハン・クリスティアンから、華やか魅力的な表現響き学び取ったのだと、研究者から指摘されてきた。モーツァルトピアノ・ソナタギャラント作曲様式は、ヨハン・クリスティアンのそれに影響されている。また、クリスティアン作品6の交響曲のうちト短調作品は、モーツァルト2つト短調交響曲先触れとして注目されるようになったまた、モーツァルト1770年頃にヨハン・クリスティアンの『6つのピアノソナタ作品5の第2、3、4曲を『3つのピアノ協奏曲 K.107』に編曲している。 1778年パリ王立アカデミーから新作オペラ上演契約得たヨハン・クリスティアンはフランス訪れパリ郊外サン=ジェルマン=アン=レー求職活動中のモーツァルト再会したモーツァルトは父レオポルト宛の8月27日の手紙でも再会お互いに喜んだことについて触れており、これが二人最後出会いとなった。この時ヨハン・クリスティアンが作曲していたオペラは、翌1779年パリ初演された『ゴールのアマディ Amadis de Gaule』であり、これは彼にとっても最後オペラとなったパリからロンドン帰ったヨハン・クリスティアンのもとに、兄のヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ訪れ息子ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ弟子入りさせている。このロンドン訪問はヨハン・クリストフ・フリードリヒ自身音楽にも大きな影響与えた

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ロンドン時代

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クラウディオ・アバド」の記事における「ロンドン時代」の解説

イギリスでも1979年に、ロンドン交響楽団首席指揮者1983年には同楽団音楽監督となったレコーディングはさらに増え楽団員良好な関係を築きオーケストラモチベーション引き上げることに成功する押しも押されもせぬ世界トップクラス躍り出て、いよいよ黄金期迎えるかという矢先アバド契約延長をしないことを発表した楽団員延長望んでいたこともあり、失望大きかった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 02:18 UTC 版)

ルーシー・リー」の記事における「ロンドン時代」の解説

ロンドンではハイドパークの北に小さな家を見つけ、そこを工房住居とした。以後およそ50年わたって活動の場となったアルビオン・ミューズの工房である。 すでにウィーン10年上の実績があるにもかかわらずリー陶芸イギリスではほとんど認知されていなかった。この時イギリスでは、個人表現として陶磁器制作いわゆるスタジオ・ポタリーが盛んになりつつあった。バーナード・リーチやウィリアム・ステート=マリーといった作家たちは、東洋陶磁を範として安定感のある重厚な陶器手掛けており、薄く装飾的なリー作品評価されなかった。 第二次世界大戦始まり戦争深刻化するにつれ、作陶はより困難になるリーファッション業界から依頼受けて洋服用の陶製ボタン作って生計立てたボタン轆轤挽き石膏型によって形作られカラフルな色や金で彩色された。この時アシスタントとしてハンス・コパー雇い入れるコパードイツ出身父親ユダヤ人だったため、リー同様にナチス迫害逃れてイギリスへ亡命してきていた。コパーはもともと彫刻家目指していたが、陶芸技術もすぐに習得しリー作陶支え重要なアシスタントとなった。やがて戦争終結すると、リー徐々にボタン作り規模縮小し陶器制作にかける時間増やしていった。リーコパーはまもなく共同テーブルウェア制作するようになり、そうした器の底裏には二人印銘それぞれ刻まれた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 10:25 UTC 版)

チャールズ・ヤーキス」の記事における「ロンドン時代」の解説

1900年8月ヤーキスロンドン訪れ地下鉄計画線視察ハムステッド・ヒースからロンドン市街を眺望したのちロンドン地下鉄形成参画した。ヤーキスディストリクト鉄道建設中だったベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道支配するためロンドン地下電気鉄道設立した新線建設ディストリクト鉄道電化資金アメリカ時代と同様複雑な金融取引駆使して調達したヤーキス人生最後成功ひとつとしてロンドン地下鉄事業へのジョン・モルガン参入阻止したことがあげられるヤーキス自身手掛けたロンドン地下鉄路線の開業を見ることはなかった。今日ベーカールー線一部であるベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道ピカデリー線一部であるグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道開業したのはヤーキス死後か月経過した1906年であり、ノーザン線一部となるチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道開業するのはその翌年夏である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 14:16 UTC 版)

ジョルジュ・サルマナザール」の記事における「ロンドン時代」の解説

1703年24歳になったサルマナザールはイギリスロンドン渡った。このロンドンで、サルマナザールはプロテスタント改宗した台湾王族名乗り大胆にロンドン司教との面会求めた。この試みは、ウィリアム・イネスという共犯者助力成功する結果イネス牧師仲介により面会したロンドン司教ヘンリー・コンプトンは、サルマナザールを海の彼方から来た信心深い東洋人だと信じきってしまった。これによりサルマナザールはロンドン社交界信頼獲得しその物珍しさからサロン連日招かれ講演行った。サルマナザールは空想から生み出したエキゾチックな台湾風俗堂々と語り、突然の質問にも矛盾なく答えた。これはサルマナザールが事前に彼にとっての「台湾」を緻密に作り上げていたためで、歴史風土社会制度加えて台湾文字と文法まで生み出して暗記していた。人工言語のはしりともいえるが、1880年代生まれたエスペラントのような実用性はなく、独特な発音要する20字(台湾アルファベット)と文法生み出されただけだった。しかし英国人が耳にしたのことのない発音よどみなく話される台湾語」は、サルマナザールをより強く台湾人だと印象づけた。

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