ロンドン時代
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「アンソニー・ヴァン・ダイク」の記事における「ロンドン時代」の解説
イングランド王チャールズ1世はイギリスの歴代君主のなかでも特に芸術に興味を示し、美術品を収集した人物であり、美術品は自身の威厳を増大することに寄与すると考えていた国王だった。1628年にチャールズ1世はマントヴァ公カルロ1世が売却を余儀なくされた優れた美術コレクションを購入したほか、1625年に戴冠して以来、諸外国の著名な画家たちをイングランドへと招聘しようと試みている。1626年にイタリア人画家オラツィオ・ジェンティレスキをイングランドへ招くことに成功し、のちにオラツィオの娘で同じく画家だったアルテミジア・ジェンティレスキもイングランドに迎え入れた。ルーベンスもチャールズ1世がイングランドへ招きたいと熱望していた画家で、1630年に外交官としてイングランドを訪れたルーベンスに絵画制作を依頼した。その後にもチャールズ1世はさらにルーベンスの作品をアントウェルペンから輸入し、購入している。ルーベンスは9ヶ月間イングランドに滞在し、チャールズ1世から歓待されてナイトの称号まで授与されている。当時のイングランド宮廷肖像画家だったダニエル・マイテンスは、あまり優れているとはいえないフランドル人の画家だった。チャールズ1世は背が低く(5フィート以下だったといわれる)、チャールズ1世の肖像画を描く画家にとって、力強く威厳に満ちた君主として描き出すためには相当な技量が必要だった。 ヴァン・ダイクは1620年以来イングランド宮廷との関係が続いており、チャールズ1世の絵画収集代理人の手助けを務めることもあった。自身の作品をチャールズ1世へ譲渡することもあり、それらの作品の中にはチャールズ1世の代理人とともに描いた自画像(1623年)、タッソの恋愛叙情詩『解放されたエルサレム』に題材をとった神話の登場人物リナルドとアルミーダを描いた絵画(1629年、ボルチモア美術館)、王妃の依頼で描いた宗教画などがあった。また、ヴァン・ダイクは1632年にチャールズ1世の姉のボヘミア王妃エリザベス・ステュアートの肖像画を亡命先のデン・ハーグで描いている。1632年4月にヴァン・ダイクはロンドンを再訪し、間もなく宮廷に迎え入れられて、7月にはナイト爵と「サー」の称号、200ポンドの年金、主席宮廷画家 (en:Principal Painter in Ordinary) の地位を授与された。さらにヴァン・ダイクが描く絵画は高値で買い上げられており、チャールズ1世は5年の間年金を支払う必要がなかったほどで、以降もヴァン・ダイクが描く絵画の価格が下落することはなかった。ロンドン中心部のブラックフライアーズに邸宅兼工房を与えられ、この場所がシティ・オブ・ロンドンのちょうど外側だったために、シティの芸術家ギルドが独占していた絵画専売権の影響を受けることもなかった。そのほか、王族以外使用禁止だったエルサム宮殿 (en:Eltham Palace) の続き部屋も静養所としてヴァン・ダイクに提供されている。ブラックフライアーズの工房には国王夫妻がよく訪れ、後に国王夫妻専用の道路が敷設されるほどだった。ヴァン・ダイクが存命中にこのような厚遇を受けた画家は他に存在しなかった。 ヴァン・ダイクはイングランドで大きな成功を収め、国王チャールズ1世、王妃ヘンリエッタ、王子、王女たちの肖像画を次々に描いた。肖像画の多くには複数のヴァージョンがあり、諸外国との外交儀礼用の贈答品や、次第に議会と軋轢を深めていく国王の支持者たちへの下賜品として使用されている。ヴァン・ダイクはチャールズ1世の肖像画40点程度、ヘンリエッタの肖像画30点程度、ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースの肖像画9点、その他の宮廷人の肖像画も多数描いたと考えられている。自画像、さらには自身の愛人マーガレット・レモンの肖像画も描いた。ヴァン・ダイクは権力者の権威や威光などの描写は控えめにして、くつろいだ雰囲気で優雅さと気楽さとが入り混じった表現で肖像画を描いた。このようなヴァン・ダイクの絵画表現は18世紀の終わりになるまで、イングランドの肖像画に多大な影響を与え続けることになる。肖像画の背景には豊かな自然の風景画が描かれていることも多い。ロイヤル・コレクションが所蔵する騎乗するチャールズ1世を描いた『チャールズ1世騎馬像』(1637年 - 1638年頃)は、ティツィアーノの傑作『カール5世騎馬像』(1548年)を下敷きにした名作だが、チャールズ1世の肖像画でより印象的な作品は、ルーヴル美術館が所蔵する馬から降りたチャールズ1世を描いた『英国王チャールズ1世の肖像』(1635年頃)である。「意図的にくつろいだ構成がとられており、一見するとイングランド国王ではなく田園地帯を散策している田舎の紳士に見えるかもしれない。しかし疑いようもなくチャールズ1世は天性の統治者としての完璧な威厳に満ちた表現で描かれている」と評価されている。 ヴァン・ダイクの肖像画に描かれたイングランド上流階級の人物の多くは国王に忠誠を誓う伝統的な騎士党風のスタイル、衣装で描かれているが、実際にはヴァン・ダイクの主要な貴族階級のパトロンたち、例えば第4代ベッドフォード伯爵フランシス・ラッセル(英語版)、第10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシー、第4代ペンブルック伯フィリップ・ハーバートなど、ヴァン・ダイクの死後に勃発した清教徒革命(イングランド内戦)でチャールズ1世に敵対する円頂党となった人々も多い。 イングランドではヴァン・ダイクは外国人だったが事実上イングランド国民同然であり、1638年にはスコットランド貴族でルースヴェン卿の称号を持っていたこともあるパトリック・ルースヴェンの娘メアリと結婚した。メアリは1639年から1640年まで王妃付き女官 (en:Lady in waiting) に任命されており、これはチャールズ1世がヴァン・ダイクをイングランドに引き留めておくための対策だったと考えられている。ヴァン・ダイクは1634年のほとんどの時期をイングランドを離れてアントウェルペンに在住しており、イングランド内戦勃発間際の1640年から1641年には数ヶ月間フランドルとフランスで過ごしている。1640年にはフランスでの投獄から解放されたばかりのポーランド王弟ヤン・カジミェシュと行動をともにしており、ヴァン・ダイクが描いたヤン・カジミェシュの肖像画も現存している。ヴァン・ダイクは1641年の夏に再びイングランドを離れ、滞在先のパリで重病を患って急遽ロンドンへと戻されたが、間もなくブラックフライアーズの自宅で息を引き取った。未亡人となったメアリはのちに準男爵リチャード・プライズと再婚している。ヴァン・ダイクはメアリと愛人との双方に娘をもうけており、死去したときメアリとの間に生まれた娘はわずか生後10日だった。どちらの娘も養子に出され、最終的には二人ともフランドルでその生涯を閉じている。 ヴァン・ダイクはロンドン大火で焼失する以前のセント・ポール大聖堂 (en:Old St. Paul's Cathedral) に埋葬され、チャールズ1世がその墓碑銘を設置した。 1641年、信心深い、よきカトリック教徒だったアンソニーは病を得てイングランドへと戻ってきたが、その後間もなく亡くなってしまった。 国王と宮廷の深い悲しみ、さらに芸術を愛するものすべて嘆きのうちにセント・ポール寺院に埋葬された。 生前に多くの財を手にしたが、ヴァン・ダイクが残した財産はわずかである。その豪奢な暮らしぶりは画家というよりは王族のようであった。 — ヴァン・ダイクの墓碑銘
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ロンドン時代
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「ロバート・チャップマン (牧師)」の記事における「ロンドン時代」の解説
その後、ロバートは15歳の年にロンドンへ引越しし、法律事務所で見習いとして働き始めた。そして見習いを始めてから5年後の1823年にロバートは正式に弁護士となった。また同年、ロバートはジョン・ストリート礼拝堂にてジェームズ・ハリントン・エヴァンズの説教を聞いて福音に出会い、回心した。エヴァンズは牧師補であったが、非国教会的な思想の持ち主で、教派に縛られない自由な発想で活動を行っていた。 ロバートは信仰にめざめ、エヴァンズの思想に触れたことをきっかけに、ロンドンの貧しい人々のもとへ訪問し、援助を行うようになった。しかしその一方でロバートは当初、弁護士として活躍していたために、豊かな生活を送る名士の一員としてみなされていたが、ロバートの考えを理解しない友人たちは彼の変化に付いていけず、彼に寄り付かなくなっていった。だが、ロバートのいとこの夫、パグスレーはロバートに影響を受けて信仰に目覚めるとともに、バーンスタプルの貧しい人々のために活動を始めた。なお、パグスレーも弁護士であった。また1831年、ロバートはこのバーンスタプルの地に招かれ、地域住民のために伝道を行いもした。 そしてロバートは再びロンドンに戻ると、自分の時間すべてをキリスト教の伝道活動に捧げるべく召命されているとの確信を抱くようになり、また、弁護士という自らの職業に潜む幾つかの点が、自らの信仰にとって快いものではなくなってきていることに気付くようになった。こうして1832年、ロバートはバーンスタプルにあるエベネツァー改革バプテスト教会の牧師に招かれる機会を得たことをきっかけに、お金儲けもできて社会的にも出世できたはずの弁護士の職を手放し、彼は正式にその教会の牧師となった。
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ロンドン時代
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「ヨハン・クリスティアン・バッハ」の記事における「ロンドン時代」の解説
1762年にミラノ大聖堂に対して「1年間の休職」を申し出て 渡英したが、そのままロンドンに住んだ。ミラノ大聖堂の職は1763年12月に正式に辞した。兄カール・フィリップ・エマヌエルは、異母弟のオペラ界への進出とカトリックへの改宗、そしてドイツを捨ててつかんだ世界的な成功を、先祖への裏切りと見ていたらしい。 それからの20年間、ヨハン・クリスティアン・バッハはイングランドで最も有名な音楽家「ジョン・クリスティアン・バック」であった。その舞台作品は国王劇場で上演され、非常に暖かく歓迎された。第1作の『オリオン Orione 』は1763年2月19日に初演され、大成功であった。この作品はクラリネットを用いた最初の音楽作品でもあった。国王劇場では同年『ザナイダ』を、1765年に『シリアのハドリアヌス帝』を、1767年に『カラクタクス』を上演している。ヨハン・クリスティアン最後のオペラ・セリア『スキピオの慈悲 La Clemenza di Scipione 』(1778年)はロンドンの聴衆に何年間も人気があり、モーツァルトの『皇帝ティートの慈悲 La Clemenza di Tito 』(1791年)と興味深い類似点を見せている。 ヨハン・クリスティアン・バッハはイギリス王妃シャーロット専属の音楽師範となり、王妃ならびに王子・王女たちに音楽の稽古をしたり、国王ジョージ3世がフルートを吹くときに伴奏することが任務となった。 1764年から、父親同士も親友であったカール・フリードリヒ・アーベルとともに定期公演(バッハ・アーベル・コンサート)を催すと、たちまちロンドン聴衆の流行の娯楽の一つとなった。この連続演奏会は質が高く、バッハの没する1782年まで長年続けられたために、ヨーロッパの公開演奏会の発達に重要な働きをした。バッハとアーベルは、ジョヴァンニ・ガッリーニ(en)とともに1774年にハノーヴァー・スクエア・ルームズを建て、ここでコンサートを行った。バッハの没後は、ヴァイオリニストのヴィルヘルム・クラーマーを中心として、同じハノーヴァー・スクエアでプロフェッショナル・コンサートがその後継として開催されるようになった。このプロフェッショナル・コンサートのライバルがヨハン・ペーター・ザーロモンのコンサートであった。 しかしハノーヴァースクエアの建設にかかった多額の費用により、コンサートは負債に苦しむようになった。 ヨハン・クリスティアン・バッハはピアノの演奏で知られ、チャールズ・バーニーによると、すべてのハープシコード製造者がピアノの機構を試してみるほどの影響を及ぼしたという。 1772年には、マンハイムに呼ばれて新作オペラ『テミストクレ』を上演し、成功をおさめた。1776年でもマンハイムで『ルーチョ・シッラ』を上演している。 1764年、父レオポルトに連れられてロンドンを訪れていたモーツァルト少年と仲良くなる。モーツァルトはヨハン・クリスティアンから、華やかで魅力的な表現や響きを学び取ったのだと、研究者から指摘されてきた。モーツァルトのピアノ・ソナタのギャラントな作曲様式は、ヨハン・クリスティアンのそれに影響されている。また、クリスティアンの作品6の交響曲のうちト短調の作品は、モーツァルトの2つのト短調交響曲の先触れとして注目されるようになった。また、モーツァルトは1770年頃にヨハン・クリスティアンの『6つのピアノソナタ』作品5の第2、3、4曲を『3つのピアノ協奏曲 K.107』に編曲している。 1778年、パリの王立アカデミーから新作オペラ上演の契約を得たヨハン・クリスティアンはフランスを訪れ、パリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで求職活動中のモーツァルトと再会した。モーツァルトは父レオポルト宛の8月27日付の手紙でも再会をお互いに喜んだことについて触れており、これが二人の最後の出会いとなった。この時ヨハン・クリスティアンが作曲していたオペラは、翌1779年にパリで初演された『ゴールのアマディ Amadis de Gaule』であり、これは彼にとっても最後のオペラとなった。 パリからロンドンに帰ったヨハン・クリスティアンのもとに、兄のヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハが訪れ、息子のヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハを弟子入りさせている。このロンドン訪問はヨハン・クリストフ・フリードリヒ自身の音楽にも大きな影響を与えた。
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ロンドン時代
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「クラウディオ・アバド」の記事における「ロンドン時代」の解説
イギリスでも1979年に、ロンドン交響楽団の首席指揮者、1983年には同楽団の音楽監督となった。レコーディングはさらに増え、楽団員と良好な関係を築きオーケストラのモチベーションを引き上げることに成功する。押しも押されもせぬ世界のトップクラスに躍り出て、いよいよ黄金期を迎えるかという矢先、アバドが契約延長をしないことを発表した。楽団員は延長を望んでいたこともあり、失望は大きかった。
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ロンドン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 02:18 UTC 版)
ロンドンではハイドパークの北に小さな家を見つけ、そこを工房兼住居とした。以後およそ50年にわたって活動の場となったアルビオン・ミューズの工房である。 すでにウィーンで10年以上の実績があるにもかかわらず、リーの陶芸はイギリスではほとんど認知されていなかった。この時イギリスでは、個人の表現としての陶磁器制作、いわゆるスタジオ・ポタリーが盛んになりつつあった。バーナード・リーチやウィリアム・ステート=マリーといった作家たちは、東洋陶磁を範として安定感のある重厚な陶器を手掛けており、薄く装飾的なリーの作品は評価されなかった。 第二次世界大戦が始まり、戦争が深刻化するにつれ、作陶はより困難になる。リーはファッション業界から依頼を受けて、洋服用の陶製ボタンを作って生計を立てた。ボタンは轆轤挽きか石膏型によって形作られ、カラフルな色や金で彩色された。この時アシスタントとしてハンス・コパーを雇い入れる。コパーはドイツ出身で父親がユダヤ人だったため、リーと同様にナチスの迫害を逃れてイギリスへと亡命してきていた。コパーはもともと彫刻家を目指していたが、陶芸の技術もすぐに習得し、リーの作陶を支える重要なアシスタントとなった。やがて戦争が終結すると、リーは徐々にボタン作りの規模を縮小し、陶器制作にかける時間を増やしていった。リーとコパーはまもなく共同でテーブルウェアを制作するようになり、そうした器の底裏には二人の印銘がそれぞれ刻まれた。
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ロンドン時代
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「チャールズ・ヤーキス」の記事における「ロンドン時代」の解説
1900年8月、ヤーキスはロンドンを訪れ、地下鉄の計画線を視察、ハムステッド・ヒースからロンドン市街を眺望したのちロンドン地下鉄の形成に参画した。ヤーキスはディストリクト鉄道、建設中だったベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道、グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道を支配するためロンドン地下電気鉄道を設立した。新線建設とディストリクト鉄道電化の資金をアメリカ時代と同様複雑な金融取引を駆使して調達した。ヤーキスの人生最後の成功のひとつとして、ロンドン地下鉄事業へのジョン・モルガンの参入を阻止したことがあげられる。ヤーキスは自身が手掛けたロンドン地下鉄各路線の開業を見ることはなかった。今日のベーカールー線の一部であるベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道、ピカデリー線の一部であるグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道が開業したのはヤーキスの死後数か月が経過した1906年であり、ノーザン線の一部となるチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道が開業するのはその翌年夏である。
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ロンドン時代
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「ジョルジュ・サルマナザール」の記事における「ロンドン時代」の解説
1703年、24歳になったサルマナザールはイギリスのロンドンに渡った。このロンドンで、サルマナザールはプロテスタントに改宗した台湾の王族と名乗り、大胆にもロンドン司教との面会を求めた。この試みは、ウィリアム・イネスという共犯者の助力で成功する。結果、イネス牧師の仲介により面会したロンドン司教ヘンリー・コンプトンは、サルマナザールを海の彼方から来た信心深い東洋人だと信じきってしまった。これによりサルマナザールはロンドン社交界の信頼を獲得し、その物珍しさからサロンに連日招かれて講演を行った。サルマナザールは空想から生み出したエキゾチックな台湾風俗を堂々と語り、突然の質問にも矛盾なく答えた。これはサルマナザールが事前に彼にとっての「台湾」を緻密に作り上げていたためで、歴史、風土、社会制度に加えて台湾文字と文法まで生み出して暗記していた。人工言語のはしりともいえるが、1880年代に生まれたエスペラントのような実用性はなく、独特な発音を要する20字(台湾アルファベット)と文法が生み出されただけだった。しかし英国人が耳にしたのことのない発音でよどみなく話される「台湾語」は、サルマナザールをより強く台湾人だと印象づけた。
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