ロンドン時代(1813年-1824年)[28歳-39歳]
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「フェルディナント・リース」の記事における「ロンドン時代(1813年-1824年)[28歳-39歳]」の解説
1813年4月末、ナポレオン戦争の終結が半年後に迫る頃、リースはロンドンに辿り着いた。ロンドンは戦争への投資で経済的に疲弊していたが、一方で、すでに戦後の産業文化の躍進を予感させる動きが起き始めていた。音楽業界でいえば、出版社やピアノメーカーの成長、新たな音楽協会の創設などが挙げられる。リースは11年間の滞在のなかで、これらと密接な関わりを持った。 彼のロンドンでの音楽活動の基盤を作ったのは、同郷の出身で父の師であるヨハン・ペーター・ザーロモンである。かつてハイドンを招聘した有名プロデューサーである彼の助力により、リースは、1814年3月14日にロンドン・デビューを飾り、翌年には、彼が創設者の一員であるロンドン・フィルハーモニック協会(現:ロイヤル・フィルハーモニック協会)のディレクターに就任した。これを契機に、リースは計6曲の交響曲を作曲し、定期演奏会では主に「アット・ザ・ピアノフォルテ(ピアノの前での補助指揮)」のポジションに就いて演奏を導いた。また、ピアノ曲や室内楽なども数多く手がけ、1820年代前半には、その人気は国内外で頂点に達した。 協会の同僚には、先のザーロモンをはじめとして、ムツィオ・クレメンティやヨハン・バプティスト・クラーマーのように、音楽ビジネスマンとして成功を収める者たちが数多くいた。こうした気風のなかで、リースもまた、作曲、演奏活動のみならず、同郷の音楽家のロンドン招聘事業に携わった。1820年にはルイ・シュポーアを招聘することに成功。旧師ベートーヴェンを招聘する計画は頓挫するが、それは結果として「交響曲第9番」誕生の契機を生むこととなった。また、「ハンマークラヴィーアソナタ」をはじめとした、ベートーヴェンの数多くの作品の出版と普及に貢献した。 このような一連の活動および、上流階級のコミュニティや王立音楽アカデミー(1822年創立)でのピアノ教師の仕事に加え、彼のロンドンでの社交・経済生活を支えたのが、ゴルトシュミット(ゴールドスミス)家をはじめとする複数の銀行家や商人の一族であった。私生活においては、1814年7月25日にイギリス人女性のハリエット・マンジョンと結婚、同地で2女1男をもうけた。 だが、イギリスの音楽業界は、資金は潤沢であるが後進的かつ保守的であり、またイギリス人と外国人の対立が絶えない環境であった。リースも、1820年には協会内部の争いに巻き込まれ、1821年にディレクターを辞任。経済的な蓄えはすでに十分であったため、ボンへの帰郷を決意。1824年5月3日のお別れコンサートにて「ピアノ協奏曲第7番 Op.132」を演奏したのち、妻子と共にロンドンを離れる。
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