ロンドン旅行
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「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の記事における「ロンドン旅行」の解説
1790年、エステルハージ家のニコラウス侯爵が死去。その後継者アントン・エステルハージen:Anton_I,_Prince_Esterházy(アンタル・エステルハージhu:Esterházy Pál Antal (1738–1794))侯爵は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンに年間1400グルデンの年金を与えて年金暮らしにさせてしまった。ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではなかった。ウィーンに出てきていたハイドンは、同年末にはロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を開催していた興行主 ヨハン・ペーター・ザーロモンの招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになった(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されなかった)。 1791年1月から1792年6月、および1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めた。聴衆はハイドンの協奏曲を聴きに集まり、ほどなくハイドンは富と名声を得た。この2回のイギリス訪問の総収入は20000グルデンにのぼったとされる。なお、このイギリス訪問の間に、ハイドンの最も有名な作品の数々(第94番『驚愕』、第100番『軍隊』、第103番『太鼓連打』、第104番『ロンドン』の各交響曲、弦楽四重奏曲第74番(第59番)『騎士』やピアノ三重奏曲第25番『ジプシーロンド』など)が作曲されている。 ハイドンは最初のイギリス訪問の際、行き(1790年12月)と帰り(1792年7月)にボンに立ち寄っており、そこでベートーヴェンと邂逅している。どちらの時期かは定かでないが、ベートーヴェンは自身のカンタータ、『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ』WoO.87か『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ』WoO.88のどちらかを見せ、ベートーヴェンの才能を認めたハイドンは1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束している。
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