就職活動
求職活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 08:13 UTC 版)
失業認定がされる要件として、「失業」状態にあるということに加えて、「求職活動」を所定の回数以上行ったことを公共職業安定所長が確認することが必要である。公共職業安定所長は、確認の際には、受給資格者に対し、職業紹介又は職業指導を行うものとされる。「求職活動」とは、以下のものを指す。 求人への応募(実際に面接を受けた場合だけではなく、応募書類の郵送、筆記試験の受験等も含まれる。ただし、書類選考、筆記試験、採用面接等が一の求人に係る一連の選考過程である場合には、そのいずれまでを受けたかにかかわらず、一の応募として取り扱う)。ハローワークの紹介によるものであるか否かを問わない。 ハローワーク(船員を希望する者については、地方運輸局、船員雇用促進センター)もしくは厚生労働大臣の許可・認可を受けた民間職業紹介機関(転職エージェント)・派遣会社、公的な機関等(雇用・能力開発機構、高年齢者雇用開発協会、地方自治体、求人情報提供会社など)が行う職業指導もしくは職業紹介、個別相談が可能な企業説明会(いわゆる「適職フェア」など)、セミナー受講、新聞社が主催する合同求人面接会への参加 再就職に資する各種国家試験、検定等の資格試験の受験 これらの活動を認定対象期間内(原則4週間)に2回以上行っていれば認定となる。ただし次の場合に限り下記の要件を満たせば認定となる。 離職理由による給付制限が課せられない場合は、初回の認定対象期間内は求職活動を1回以上行なっていればよい(通常、雇用保険説明会に出席すれば認定となる)。 離職理由による給付制限が課せられているときは、待期期間経過後、給付制限期間(原則3か月)終了直後の失業認定日の前日までに求職活動を3回以上行なっている必要がある(初回のみであり、以降の認定日については2回以上でよい)。 求人に応募(ハローワークの紹介であるか否かを問わない)した場合は、求職活動1回以上でよい(結果が通知されるまでの期間は引き続き求職活動を行っているものとみなされる)。 「就職困難者」は、各認定日ごとに求職活動を1回以上行っていれば認定される。 認定対象期間が7日未満の場合、待期期間が満了したということのみの認定を受ける場合は、求職活動を行っていなくとも認定される。 認定対象期間が7日以上14日未満の場合については、求職活動を1回以上行っていれば認定される。 巡回職業相談所における失業の認定及び市長村長の取次による失業の認定を行う場合については、求職活動を1回以上行っていれば認定される。 以下の行為は、「求職活動」とはならない。 新聞、雑誌、インターネットでの求人情報閲覧。 知人への単なる就職あっせん依頼。 インターネット等による単なる派遣就業登録など。 単なる職業紹介機関への登録。 「求職活動」という概念が導入されたのは、2003年9月からである。それまでは、仕事を探していたかどうかということについては厳密な確認を求めずに認定を行っていたが、雇用保険制度のありかたが見直される中で「求職活動」という概念が導入されるに至った(失業認定の厳格化)。「失業認定の厳格化」と言っても、雇用保険は「失業」すなわち、仕事を探している者に対して支給がなされるものであることは全く変わっておらず、「求職活動」として掲げられている事項については、仕事を探しているならば当然に行っているべきである事項を列挙したに過ぎないというのが厚生労働省の見解である。
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求職活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 04:22 UTC 版)
「フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン」の記事における「求職活動」の解説
シュトイベンが33歳になった1763年、ほんの思いつきで陸軍大尉のまま除隊した。翌年、ホーエンツォレルン・ヘッチンゲンの王宮で執事となった時に男爵号を贈られた。シュトイベンは、廷臣として1771年にお忍びでフランス王国へ行く王子に同行した。この時は借金できることを期待していた。資金造りに失敗し、負債を抱えたまま1775年にドイツに帰った。運命を変えるべく仕事を求めて、シュトイベンはオーストリアや、バーデン、フランスなどの国外軍隊に求職活動を行った。シュトイベンは、パリにベンジャミン・フランクリンが居るのを知って、アメリカの大陸軍ならば仕事が見つかるに違いないと思った。 シュトイベンは1777年の夏にパリに行った。幸運にも、シュトイベンはフランス陸軍長官のクロード・ルイの紹介状を得た。ルイはプロイセンの参謀本部員として訓練に関わったシュトイベンの潜在的な能力を十分認識していた。フランクリンからワシントンに宛てた手紙の中では「プロイセン王に仕えた中将」とシュトイベンの軍歴にしては大げさな言い方で紹介された。シュトイベンは旅行費用を集めてマルセイユから出港した。1777年9月26日、ニューハンプシャーのポーツマスに到着し、12月1日にはボストンで法外に歓待された。大陸会議は当時フィラデルフィアを追い出され、その年の冬と翌1778年2月5日にはペンシルベニアのヨークで開かれていたが、シュトイベンもこれに同行した。大陸会議は当面無給でシュトイベンの志願を認め、2月23日、バレーフォージにいたワシントンに付くように指示した。シュトイベンは英語を話さなかったが、フランス語で何人かの将校と話ができた。アレクサンダー・ハミルトンとナサニエル・グリーンはこの面で大きな助けになった。この二人はシュトイベンが兵士の訓練計画を作るのを助け、3月には総司令官の許可を取り付けた。 1781年シュトイベンはイギリス軍のジョン・アンドレ少佐に対するスパイ容疑で軍法会議に出席した。同年、少将としてヨークタウンの包囲戦に参加した。独立戦争の終了後、シュトイベンは幾つかの州から土地の提供申し出を受けたが、最終的に大陸会議が年金$2,500ということにした。シュトイベンは1783年にアメリカ市民となった。
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