提出、不成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:38 UTC 版)
この諫奏(抗議文)は急進的な内容をもっていたため、全議員に支持されているわけではなかった。11月9日から審議が行われ22日に下院で可決したが、国王大権に大きく踏み込んだ点と国民にアピールすべく全文を印刷・公刊する動議で紛糾、票差は159対148と僅差であった。これにより、議員は「王党派」と「議会派」に分裂し、著名な議会派のエドワード・ハイドとフォークランド子爵ルーシャス・ケアリーらが反対して王党派に転じた。また3日後の25日、議会は大諫奏をスコットランドから戻ったチャールズ1世に対して提出したが拒否されたため、大諫奏は法案として成立しなかった。 続いて12月に議会が軍統帥権を国王から移動させることを図った民兵条例を審議すると、チャールズ1世の側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けてチャールズ1世は翌1642年1月に議会派の中心人物ピムとハムデン、ヘジルリッジやデンジル・ホリス、ウィリアム・ストロードら5人の逮捕を命じ、議会に対する武力干渉を開始した。ロンドン市民が議会派についたため、身の危険を感じたチャールズ1世がロンドンを離れると避難していた5人は復帰した。議会は3月に民兵条例をチャールズ1世の裁可なく可決、6月に和平提案ではあったが、制限君主制と議会主権を記した最後通牒ともいうべき19か条提案を北のヨークにいたチャールズ1世に提出、拒否されると互いに戦闘準備を整え、8月に国内は国王軍と議会軍に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が勃発した(清教徒革命・第一次イングランド内戦)。
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