三頭政治崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:47 UTC 版)
「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「三頭政治崩壊」の解説
ルッカ会談で三頭政治は維持されたものの、三者の思惑から徐々に亀裂が生じつつあった。その中で、ポンペイウスはユリアを紀元前54年に失ったことに続き、紀元前53年にパルティア遠征に向かったクラッススがカルラエの戦いで敗死したことで三頭政治は事実上崩壊し、ポンペイウスは実力を蓄えつつあったカエサルと正面からの対峙を余儀なくされることとなった。 カエサルからカエサルの大姪であったオクタウィア(後にカエサルの後継者となるオクタウィアヌスの姉)との縁談を申し込まれたものの、ポンペイウスはこれを拒否し、紀元前52年に元老院派の重鎮クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカの娘で、カルラエの戦いで戦死したクラッススの息子プブリウスの未亡人であったコルネリアを嫁に迎えることを決め、ポンペイウスは元老院派へ軸足を移していった。 紀元前52年、クロディウスの暗殺によってローマは大混乱に陥った。マルクス・カルプルニウス・ビブルスやカトら元老院議員はこれを治めるため、ポンペイウスへ異例となる単独でコンスルへ就くよう要請してポンペイウスは単独でのコンスルとなったが、注目されたクロディウスの暗殺犯ティトゥス・アンニウス・ミロの裁判に手間取ったことで混乱は抑まらず、メテッルス・スキピオを同僚のコンスルに迎え入れた。アレシアの戦いの勝利でカエサルのガリア制覇が目前となった時期、カエサルはガリア総督の任期切れ後にコンスルへ立候補することを目論んだが、ポンペイウスら元老院派はイタリア国外でコンスルへ立候補することを禁止したため、カエサルは大きな打撃となった。 紀元前51年、元老院派はカエサルがガリア総督として有するローマ軍団を解散しない限り、コンスルへ立候補することを許可できないとする内容の「元老院最終勧告」を決議した。カエサルにとっては、自派の軍団無しでローマに向かうことは自殺行為に等しく、到底許容できるものではなかった。自派の護民官や元老院議員へ解除するよう根回ししたものの、不首尾に終わったことから、カエサルとポンペイウスら元老院派との戦争は必至の情勢となった。
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