三頭政治のはじまり
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「エンヴェル・パシャ」の記事における「三頭政治のはじまり」の解説
同年4月27日、アブデュルハミト2世は暴動の責任を問われて退位し、皇弟メフメト・レシャトがメフメト5世として擁立された。しかし、その後も政局の混乱は続いた。 1910年9月28日、イタリア・トルコ戦争が勃発した。エンヴェルはベルリンから急ぎ現地に向かい、包囲網を潜ってトリポリタニアにひそかに上陸し、義勇軍を率いて活躍した。彼はその功によって中佐に昇級した。 1912年10月、第一次バルカン戦争が勃発し、12月までにバルカン同盟軍はイスタンブール至近に迫った。オスマン政府は急遽イタリアと和平したうえ、12月3日に大宰相キャーミル・パシャ(英語版)の主導でバルカン同盟軍と城下の盟を結んだ。これに反対する統一進歩団員は弾圧され、50人が逮捕された。 1913年1月23日、エンヴェルは青年トルコ人革命以来の盟友メフメト・タラート・パシャ、アフメト・ジェマル・パシャらとともにクーデター(大宰相府襲撃事件)を起こした。エンヴェル自身が小部隊を率いて大宰相府を襲撃し、陸軍大臣ナーズム・パシャ(英語版)を射殺し、キャーミル・パシャを辞任させ、マフムート・シェヴケト・パシャを新たな大宰相として擁立した。その後再びバルカン同盟との戦端が開かれたが状況挽回はならず、バルカン半島側の要衝エディルネが陥落した。結局オスマン政府は4月1日に再度の和平を締結した。 6月11日、大宰相シェヴケトが何者かによって暗殺された。ジェマル・パシャは反・統一進歩団派を犯人と断定し、反対派を粛清。後任の大宰相には統一進歩団員でムハンマド・アリー家出身のメフメト・サイード・ハリム・パシャ(英語版)が任じられた。これによって長年の政治的混乱に終止符が打たれ、統一進歩団の指導者であるエンヴェル、ジェマル、タラートによる実質的な「三頭政治(英語版)」がはじまった。 6月29日、バルカン同盟が領土分配をめぐって決裂し、第二次バルカン戦争がはじまった。オスマン軍はこの戦いに介入し、エンヴェルはエディルネを奪回した。彼はこの功績によって翌年1月に少将(パシャ)となり、陸軍大臣・総参謀長に就任した。こうしてエンヴェルはオスマン帝国の全軍を掌握し、守旧派将校たちを予備役に編入するなど軍制改革を断行した。またエンヴェルはスルタンの姪、ナジエ内親王と結婚した。
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