三頭政治体制との対決
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「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の記事における「三頭政治体制との対決」の解説
紀元前61年、シリア・パレスチナ等をローマの属州としたグナエウス・ポンペイウスは、凱旋式をローマで行う為に、執政官の選挙を凱旋式終了まで延期するように元老院へ依頼した。元老院の一部に認める動きがあったものの、カトはこれに反対して、ポンペイウスの提案は認められなかった。ポンペイウスは関係作りのために自身より遥かに若輩であったカトの娘を自らの妻へ迎えたいと申し込んだが、カトはこれに一切取り合わなかった為、ポンペイウスは人気を落とした。これらの仕打ちによってポンペイウスは元老院への不満を持つこととなった。 同年、ヒスパニア・ウルステリオル属州総督の任期を終えたカエサルも上記のポンペイウスと同様の内容を元老院へ依頼したが、元老院はこれを拒否。カトは元老院で日が暮れるまで長時間に及ぶ演説を行うことで議事進行の妨害行為を行った。その為、カエサルは凱旋式を諦めて、ポンペイウス及びマルクス・リキニウス・クラッススと政治同盟(第一回三頭政治)を結び、紀元前59年の執政官選挙でカエサルは三頭政治の密約の通りに執政官に当選した。カエサルの同僚の執政官はマルクス・カルプルニウス・ビブルス(カトの娘ポルキアの最初の夫)であったが、オプティマテスはカエサルへ対抗するためにビブルスへ進んで資金を提供した。清廉で知られたカトも必要悪としてこの買収を認めたと伝わっている。 カエサルは農地法案を提出したが、カトは農地法案の成立を長時間の演説によって阻止しようとしたため、カエサルはリクトルに命じてカトを元老院の議場から強制退場させた。しかし、一部の元老院議員が「カエサルと元老院にいるよりは、カトと共に牢獄にいる方が良い」と宣言し、多くの元老院議員もこの強制行為に対して異議を申し立てた。その為、カエサルはカトへの強制退場を解除させざるを得なかった。一方でカエサルは農地法案を反対の多かった元老院ではなく、市民集会へ提案した。ここでもカトやビブルスは反対の論陣を張ったが、市民から激しい抗議を受けたことからトーンダウンし農地法は成立した。なお、ビブルスは農地法成立以降は自宅に引き篭り、職務を放棄した。
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