パルティア語と中世ペルシア語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
「パルティア」の記事における「パルティア語と中世ペルシア語」の解説
パルティア地方を征服し、アルサケス朝を作り上げたパルニ氏族は、元々はほぼ確実に東イラン系(英語版)の言語を話していた。これに対し当時のパルティア地方ではメディア語の流れをくむ西北イラン語(英語版)を使用していた。この西北イラン語がパルティア語と呼ばれるもので、アラム文字で筆記された。パルニ氏族はこのパルティア語を王宮の公用語に採用した。 イランではパルティア語とサーサーン朝時代の中世ペルシア語を総称してパフラヴィー語と呼び、特に区別する必要のある時はアルサケス・パフラヴィー語(パフラヴィーイェ・アシュカーニー pahlavīye aškānī)とサーサーン・パフラヴィー語(パフラヴィーイェ・サーサーニー pahlavīye sāsānī)と呼んでいた。また、パルティア語をパフラヴァーニーク(pahlavānīk)、中世ペルシア語をパールスィーク(pālsīk)とも呼ぶ。イラン革命後にはパフラヴィー朝を連想させる名前であることからもっぱら「中世ペルシア語」の名前が用いられ、場合によってはパルティア語も含めて中世ペルシア語として一括して呼ばれる場合もある。 現存するパルティア語の史料は非常に限られている。重要なものとしてはサーサーン朝時代にナクシェ・ロスタムに作られた碑文群がある。これはアルサケス朝の滅亡後の文書であるが、パルティア語と中世ペルシア語の二言語、またはギリシア語を加えた三言語で記されている。また、ミトラダトケルタの遺跡(トルクメニスタンのニサ)では多数のオストラコン(陶片)文書が発見され、パルティア語の貴重な情報が得られている。そして南部クルディスタンやドゥラ・エウロポスでは羊皮紙文書が発見されている他、現在の中国領内にあるトゥルファンではソグド文字で記されたパルティア語のマニ教文書が見つかっている。 パルティア語が西北イラン語であるのに対し、中世ペルシア語は古代ペルシア語の流れをくむ西南イラン語であり、系統を異にする。しかし中世ペルシア語は発展の過程でパルティア語から多くの影響を受け、多数の語彙を受け入れたことが明らかである。両言語は非常によく似ており、しかも中世ペルシア語から発展した近世ペルシア語に多くのパルティア語の要素が含まれている事から、パルティア語と中世ペルシア語が別々の言語であることが当初正しく認識されなかったほどである。パルティア語はアルサケス朝の滅亡後も1世紀余りの間使用され続け、サーサーン朝のナルセ1世(在位:293年-302年)までの王は王碑文にパルティア語版を用意している。中世ペルシア語の重要性が増すにつれてパルティア語は使用されなくなり死語となった。
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