パルティア期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/22 14:49 UTC 版)
ペルシアに興ったパルティアは紀元前114年にエウロポスを陥落させた。パルティアの支配下で旧名のドゥラが復活した。ドゥラ・エウロポスとは近代に名付けられた遺跡名で、古代の文献にこのような名は登場しない。パルティアは軍団や地方行政の中心をドゥラに置いたが、市民生活はパルティア風ではなく相変わらずヘレニズム風であった。特に上流階級にはヘレニズムの遺風が濃く、セレウコス朝の王たちへの崇拝も続いていた。シリア砂漠のキャラバン都市パルミラとの交通が盛んで、パルミラ製の遺物も発見されている。 紀元1世紀および2世紀がドゥラの町の最盛期であった。城壁内部は完全に市街地化され、軍事都市の性格を失いキャラバンを通じた交易都市の性格を強めた。豊かな市民は神殿の新築や増築を行い、彫像や壁画で飾り立てた。これらの神殿は市民の豊かさを示すものであった。住民は異なった民族からなり、上層階級は少数のギリシア系の住民で、多数派のシリア人からパルティア風の生活習慣を受け入れ始めていた。その他ユダヤ人、アラム人、パルミラ人、ペルシア人など多様な民族が住み多くの言語が流通した。経済的には西のローマ帝国との交易で栄え、ローマの通貨も盛んに流通しパルティアの通貨を圧倒する勢いだった。この時期、ドゥラ・エウロポスでは、軍事および市民生活をつかさどるストラテゴス(将軍職)が統治を行っていた。
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