セウェルス死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:43 UTC 版)
211年に夫セウェルスが没すると、ユリアは共同皇帝となった2人の息子・カラカラとゲタの調停者としての役割を担うようになる。セウェルスは2人の息子が協力して帝国の統治を担うことを願っていたが、カラカラとゲタは仲が非常に悪く、絶えず何かしら対立していた。そして同年12月にカラカラはゲタを殺害する。 その後もユリアは息子カラカラを支え、内政を取り仕切っていたとされるが、217年にパルティア遠征にカラカラとともに出征する。しかし、この遠征中にカラカラは近衛兵士に暗殺された。後を継いで皇帝に即位した近衛隊長官マクリヌスは当初旧セウェルス朝関係者にも寛大であったが、やがてユリア・ドムナを反逆の容疑でアンティオキアに幽閉する。この頃すでに重い病に冒されていたユリア・ドムナは絶食して死を選んだとされる。
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