セウェルスの城壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「セウェルスの城壁」の解説
ローマが覇権を握るようになると、ビザンティウム(ビュザンティオンのラテン語名)は重要性を失っていった。それでも富と人が集まる防衛に優れた都市ではあったが、それも2世紀末の内戦で失われることになった。194年、ビザンティウムはペスケンニウス・ニゲルに味方したためにセプティミウス・セウェルスに包囲された。カッシウス・ディオによれば(ローマ史, 75.10–14)、包囲戦は196年まで3年間におよび、敵に投げつけるものが無くなった住民はブロンズ像までも投げるようになったという。最終的にビザンティウムを降伏させたセウェルスの処断は過酷なものだった。城壁は破壊され、市はローマ市民権を失い、ヘラクレア・ペリントゥスに付随する単なる村にまで格下げされた。しかしその戦略的重要性から、後にセウェルスはビザンティウムを再建し、競馬場やゼウクシップス浴場など多くの公共施設を建設した。そして城壁も、都市の範囲の拡大を予想して従来のものより3、400メートル西方に再建された。セウェルス時代の城壁についてはあまり記録が残っていないが、ゾシムスによれば (New History, II.30.2–4)、城壁のメインゲートはポルチコ通り(後のメセ通りの一部)の終端、のちのフォルム・コンスタンティニの手前にあった。城壁は、現在のガラタ橋あたりから南に向かい、ヌールオスマニィエ・モスク付近で曲がって競馬場の南壁につながり、さらに北東へ向かってボスポラス海峡付近で旧城壁と接続していたと考えられている。『コンスタンティノープルの起源』では、324年のコンスタンティヌス1世とリキニウスの内戦に関して、上記とはまた別の城壁があったことを示唆するような記述がある。これはセウェルスの城壁の外側に位置し、後に街がコンスタンティノープルとして拡張されてからフィラデフィオンと呼ばれるようになる地域に城壁があった、というもので、この時代にはセウェルスの城壁の他にも城壁が増設されていたことが分かる。
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