カラカラとゲタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:11 UTC 版)
詳細は「カラカラ」および「プブリウス・セプティミウス・ゲタ」を参照 前皇帝セウェルスが42歳にして授かったカラカラことルキウス・セプティミウス・バッシアヌスは、弟プブリウス・セプティミウス・ゲタと共に父の後継者として養育された。父が病没すると両者は正式に皇帝に即位し、ローマでは三例目となる直系世襲を果たした。 継承前にバッシアヌスは前王朝のアントニヌス朝との繋がりを強調するため名をマルクス・アウレリウス・アントニヌスと改めた。また、それに伴いコンモドゥス帝の名誉回復も図られコンモドゥス帝へのダムナティオ・メモリアエは撤回された。 しかしこの兄弟は非常に仲が悪く、兄弟というより忌むべき宿敵としてお互いを憎みあった。皇帝に即位した後も激しい権力闘争を繰り広げ、一時は帝国を二分するという仲裁案が出されたほどであったという。両者の諍いは兄カラカラが弟ゲタを母ドムナの眼前で殺害する凶行へと至り、合わせてゲタを支持していた大勢の貴族達が粛清された。これが暴君として名を残したカラカラの治世における最初の特筆されるべき行動であった。 カラカラは私生活では暴君の常として酒色に耽溺した生活を送り、それを窘める人間は容赦なく迫害した。自分の弟殺しを批判するアレクサンドリア市での噂を聞きつけると、弁明の場と称して民衆を集めた上で軍に殺戮させた。カッシウス・ディオ、ヘロディアヌスらにより、この凄惨な虐殺の記録が残されている。内政面では軍の給与保障の為に新通貨(正式名は不明だがアントニニアヌスと通称される)を発行、インフレーションを引き起して更に帝国財政を悪化させるなど思慮の浅い行為を繰り返した。特に税収確保の為に行ったアントニヌス勅令では全属州民に市民権を無条件付与したが、市民権の特権を事実上失わせたことで帝国内の民族バランスが大きく崩れ、同勅令は帝国崩壊の一因ともなった。外征面でも父に倣って親政を行ったものの、賠償金で蛮族を撤兵させるなど戦果を挙げることはできなかった。 形振り構わぬ軍への優遇策で父と同じ軍事独裁による体制維持に成功し、暴政と失態を繰り返しながらも治世は維持されていた。だが私怨を抱いていた護衛の兵士に放尿中に剣を突き立てられ、呆気ない最期を迎えた。子息や他の男系子孫もいなかった事でセウェルス朝は断絶し、重臣マクリヌスが元老院の支持を得て皇帝となった。
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