連合国の独立
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1860年のアメリカ合衆国大統領選挙において、共和党側大統領候補に選出されたエイブラハム・リンカーンは奴隷制の拡大に対する反対を訴えた。一方の民主党は奴隷制に関する議論の末、現状維持を主張する南部州の派閥と奴隷制緩和を主張する北部州の派閥に分裂していた。その為、結局は南部側のジョン・ブレッキンリッジと北部側のスティーブン・ダグラスの2人が民主党側大統領候補としてそれぞれ出馬することになる。さらに第4の候補者として、立憲連合党からテネシー州上院議員ジョン・ベルが出馬している。南部上部州出身のベルは元ホイッグ党員かつノウ・ナッシングの支持者として知られ、奴隷制度については現状維持を訴えた。最終的に、南部諸州の選挙人投票で苦戦しつつも共和党側候補リンカーンが勝利した。リンカーンは規制の奴隷制度を廃止するような連邦法の提案を行わなかったが、1858年の「分かれたる家」演説(英語版)では彼自身の奴隷制に関する見解として次のように述べた。 「それ(奴隷制)の更なる普及を阻止し、公共心がそれへの信仰を打ち消すようにしなければならない。これはつまり、奴隷制根絶の過程と言えよう。」 リンカーンはまた、選挙活動中に奴隷制に対する即時の対応を公約として掲げたりはしなかった。それにも関わらずリンカーンの掲げた様々な政策は、南部諸州における奴隷制廃止の懸念と反発を生み出し、まもなくして南北戦争の勃発を招いた(南北戦争の原因)。 1860年12月20日のサウスカロライナ州脱退を皮切りに、1861年2月までに奴隷制を採用していた南部7州(サウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州)が合衆国からの離脱を宣言した。当時の合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンは脱退宣言は違憲行為であると述べたが、合衆国憲法では大統領および議会に違憲行為の撤回を行わせる権限を付与していなかった為、この理由をもって何らかの措置をとることはできなかった。1861年3月4日、エイブラハム・リンカーンが合衆国大統領に就任するが、この頃には離脱した7州は既にアメリカ連合国として独立宣言を行なっていた。連合国に参加した各州では、州内に存在する連邦政府の財産および施設の接収を開始した。この中には合衆国陸軍が有したほとんどの砦も含まれている。リンカーンは連邦政府の戦力を保持するべく、サウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞など、連邦政府の支配下に残っている軍事施設の死守を全州に命じた。当初、彼はブキャナンと同様に7州の離脱が違憲行為か否かについて検討したが、後に7州の行動は合衆国政府に対する反逆(rebellion)であるという見解を示した。これは反逆行為に対してであれば、合衆国大統領に阻止・鎮圧する権利および義務が付与されていた為である。同じ頃、合衆国大統領および合衆国議会の権限を無視して設置された連合国臨時議会では、連合国暫定軍(Provisional Army of the Confederate States, PACS)の設置を承認した。これにより、合衆国と連合国による内戦は避けられないものとなった。 ジェファーソン・デイヴィス連合国大統領の命令の元、P・G・T・ボーリガード将軍に率いられた連合国所属部隊は1861年4月12日から13日にかけてサムター要塞を砲撃した。その結果、サムター要塞は補給や補強を受けることなく4月14日に降伏した。北部および西部の諸州は、1861年4月15日にリンカーンが行なった呼びかけの元、合衆国維持の為の派兵に合意した。これら各州も連合国の軍事行動を反逆行為と見なしており、砦を奪還しこれを「鎮圧」する為に部隊の派遣を行なった。なお、いわゆるアッパーサウスの4州(テネシー州、アーカンソー州、ノースカロライナ州、バージニア州)は奴隷制を採用していたが、連合国には参加せず合衆国に残っていた。しかしリンカーンの派兵要請が行われるに至り、これら4州は要請を拒否すると共に合衆国離脱を宣言し、連合国に参加した。サムター要塞陥落とアッパーサウスの離脱後、共にその主力を義勇兵に頼っていた合衆国と連合国の両陸軍は、各々の目的を果たす為に急速な軍拡に乗り出した。
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