外交認知の問題とは? わかりやすく解説

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外交認知の問題(1861年2月-8月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 11:05 UTC 版)

トレント号事件」の記事における「外交認知の問題(1861年2月-8月)」の解説

トレント号事件」は1861年11月下旬まで大きな危機として浮上しなかった。この事件に至る連鎖最初のものは1861年2月のことであり、アメリカ連合国がウィリアム・ローンズ・ヤンシー、ピエール・ロストおよびアンブローズ・ダッドリー・マンの3人からなるヨーロッパ代表団造ったアメリカ連合国国務長官ロバート・トゥームズ彼等与えた指示は、南部政府性格目的説明し外交関係開き、「友好通商および航行に関する条約の交渉」にあたることだった。また州の権限脱退できる権に関する長い法的な主張含まれていた。綿花と国の正当性に関して二重攻撃されることが重荷だったので、南部の港の封鎖私掠船北部との貿易奴隷制度および非公式封鎖など多くの重要問題に関する指示抜けていた。非公式封鎖南部人が綿花出荷できないように仕組まれたものだったイギリス指導層さらにはヨーロッパ大陸諸国指導層は、アメリカ合衆国分裂避けられないと見るのが一般だった。北軍が「既成事実」に抵抗するのは不合理だ考えたが、北軍対処しなければならない事実として、その抵抗受け入れざるを得なかった。イギリス戦争帰趨が既に見えているものと考え人道的な姿勢として戦争終わらせるために採れる行動があると考えていた。ライアンズはラッセルから、戦争終わらせる可能性があるならば、その職責と、その他の団体用いるよう支持受けていた。 アメリカ連合国外交使節5月3日イギリスの外務大臣ジョン・ラッセル非公式に会見した。既にサムター要塞攻撃知らせロンドン届いていたが、この会見では即座に戦争が始まるというようなことは議論されなかった。代表団はその新しい国の平和を維持する意図強調し北部州の権限破った対抗手段としてその脱退正当性説明した彼等はその強烈な主張締めくくりとしてヨーロッパ対す綿花重要性述べたラッセルヤンシーに、アメリカ連合国によって奴隷貿易再開されるかを尋ねたときのみ、奴隷制度議論された(ヤンシーは近い過去そのようなことを提唱していた)。ヤンシーはそれがアメリカ連合国計画入っていないと答えたラッセル言質与えず、この問題閣僚会議議論することを約束したけだったイギリス一方で南北戦争対する公式姿勢決定しようとしていた。5月13日ラッセル進言に従ってヴィクトリア女王アメリカ合衆国南部交戦状態を認知することになる中立宣言発した。これはアメリカ連合国船舶が、外港アメリカ合衆国船舶が受けるのと同じ特権受けられることを意味していた。アメリカ合衆国船舶中立国の港で燃料物資補給でき、修繕受けられるが、軍需物資武器確保できないということだった。イギリスから遠く離れた植民地の港を使えるということは世界中にある北軍船舶追撃できるということだった。フランススペインオランダおよびブラジル追従した交戦状態にあるということで、アメリカ連合国物資購入しイギリス会社契約する機会与えられ北軍船舶探索して捕獲するために艦船購入できることを意味していた。女王宣言によって、イギリス交戦するどちらの側にも軍事的に介入できず、戦争使われる艦船装備行えず、海上封鎖破れず、どちらの側の軍需物資文書あるいは人員を運ぶこともできないことになっていた 。 5月18日アダムズラッセル会って中立宣言抗議したアダムズは「彼等アメリカ連合国)が、あらゆる利点利用できる状況下に、領土内にある港の一つでの行動アメリカ連合国海洋における一つでも私掠行為を示す前にはそれらを海軍力考えた)を除けば如何なる種類戦争維持できるという能力を示す前にイギリス交戦状態を認めていると論じた。この時点でのアメリカ合衆国主要な関心は、交戦状態の認知が国の外交認知向けた第一歩ということだった。ラッセル外交認知その時点で考えていないことを示したが、将来的にそれを否定できないものであり、もしイギリス政府態度が変わるようであればアダムズ知らせることに合意した一方ワシントンでは、イギリスによる中立宣言と、ラッセルアメリカ連合国代表団会ったことに、スワード動揺していた。スワード5月21日付けアダムズ宛てた手紙で、イギリスアメリカ連合国代表団受け入れたことに抗議しアダムズにはイギリス代表団会合続け限りイギリスには関わらないように命じたイギリス正式にアメリカ連合国認知すれば、イギリスアメリカ合衆国の敵になるところだった。リンカーン大統領この手紙を査閲し、表現和らげアダムズにはラッセル写し渡さないこと、ただしアダムズが適切と考えた部分のみを伝えるように指示したアダムズ修正され手紙衝撃を受け、さらに全ヨーロッパに対して開戦脅威与えているようなものだと感じた手紙受け取った後の6月12日ラッセル会見しイギリスが平和を保っている国(アメリカ合衆国)に対抗する反乱者(アメリカ連合国)の代表としばしば会ってきたが、ラッセルこれ以上代表団と会うつもりは無いことも告げられた。 8月半ばアメリカ連合国外交認知に関する問題がさらに広がったスワードは、イギリスアメリカ連合国パリ宣言盛られ条件への合意を得るために密かに交渉していることに気づいた。1856年パリ宣言では、私掠船廃止し、「戦時禁制品」を除いて交戦国運ばれる中立国商品保護し海上封鎖はそれが有効である場合のみ認めこととしていた。アメリカ合衆国当初この条約調印できなかったが、北軍アメリカ連合国海上封鎖宣言した後、スワードイギリスフランス駐在する大使達に、アメリカ連合国私掠船を使うことを制限する交渉再開するよう命じた。 しかし5月18日ラッセルはライアンズにアメリカ連合国からパリ宣言対す同意を得るよう指示していた。ライアンズはこの任務サウスカロライナ州チャールストン駐在領事ロバート・バンチに任せたバンチサウスカロライナ州知事フランシス・ピケンズに会うよう指示された。バンチはその受けた指示通り動かずピケンズ省略してアメリカ連合国パリ宣言への同意が「(イギリスによる)外交認知第1ステップ」だと請け合ったバンチ軽挙間もなく北軍の耳に届いたイギリス生まれチャールストン商人ロバート・ミュアがニューヨーク市逮捕された。ミュアサウスカロライナ民兵大佐であり、バンチ発行したイギリス外交官パスポート所持しイギリス外交文書郵袋運んでいた。この郵袋にはバンチからイギリス宛てた通信文の他に、アメリカ連合国寄り小冊子南部人からヨーロッパ文通相手宛てた個人的書簡、および外交認知に関する会話含めバンチアメリカ連合国行った交渉詳述するアメリカ連合国報告書入っていた。 この事態直面したラッセルは、イギリス政府アメリカ連合国から中立国商品(私掠によるものではない)に関する条約条項対す合意得ようとしていることを認めたが、それがアメリカ連合国対す外交関係拡大するための一歩であることは否定したスワード以前交戦状態認知時に示した反応とは異なり、この問題追求しなかった。スワードバンチ解任要求したが、ラッセル応じなかった。 ナポレオン3世治下フランスにおける外交政策目標イギリスとは違っていたが、概して南北戦争対戦相手に関してイギリス似た立場を採り、イギリス支持することも多かったイギリスフランス協業は、アメリカ合衆国駐在フランス大使のメルシエとライアンズの間で始まった例え6月15日中立宣言に関して二人でスワード会おうとしたが、スワード別々に会見することに固執した1861年全期間1862年秋までフランスの外務大臣はエドゥアルド・ソウヴネルだった。ソウヴネルは概して北軍寄り考えられナポレオン3世当初アメリカ連合国独立外交認知しようと動いていたのを止めさせていた。ソウヴネルは6月アメリカ連合国代表団一人ピエール・ロストと非公式に会見し外交認知期待しないように告げていた。 リンカーン大統領フランス駐在大使ニュージャージー州ウィリアム・L・デイトン任命したデイトンには外交経験無くフランス語話せなかったが、パリ駐在総領事のジョン・ビゲローから大い助けられた。アダムズラッセルアメリカ連合国交戦国認知に関して抗議したとき、デイトン同様な抗議をソウヴネルに行ったナポレオン3世南部との紛争解決するためにアメリカ合衆国に「調停案」を提案しており、それに対してスワードは「調停案が受け入れられるものであれば、我々がそれに向けて進むか受け入れるべきかはそれ次第である」と認めるようデイトン指示した7月第一次ブルランの戦い南軍勝利したという報せヨーロッパ届いたとき、アメリカ連合国独立避けられないというイギリス意見強くなった。ヤンシーはこの戦場での成功という利点生かすことを期待しラッセルとの会見要請したが、これを拒否され対話文書によるべきことを告げられた。ヤンシー8月14日長い文書提出しアメリカ連合国が正式の認知を受けるべきとする理由再度詳述しラッセルとの再会見を要請したラッセル8月24日に「自称アメリカ連合国の」代表団発した返事では、この戦争独立のための戦争と言うより国内での問題だと認識するイギリスの立場繰り返していた。イギリス政策は「今後戦局あるいはより平和的な交渉によって、交戦する二者それぞれの立場決定づけるようなこと」があったときのみ変わることになる。会合予定立てられず、この時がイギリス政府アメリカ連合国外交官との間に交わされ最後対話となった11月12月トレント号事件起きると、アメリカ連合国イギリス直接対話する有効な方法持たず交渉の席から完全に外されたままとなった8月までにヤンシー病気になって憤懣募り辞めようとしていた。やはり8月に、デイヴィス大統領は、一旦外交認知が済めば、アメリカ連合国大使として相応し人物イギリスフランスに送る必要性があると決心していた。その選択ルイジアナ州のジョン・スライデルとバージニア州ジェイムズ・メイソンだった。二人とも南部中で広く尊敬集めており、外交経歴もあった。米墨戦争終盤ジェームズ・ポーク大統領がスライデルを交渉担当指名しており、またメイソンアメリカ合衆国上院外交委員会1847年から1860年まで委員長務めていた。 1861年7月バージニア州R・M・Tハンターアメリカ連合国国務長官になったハンターメイソンとスライデルに与えた指示は、当初の7州から11州に拡大したアメリカ連合国の強い立場強調しメリーランド州ミズーリ州およびケンタッキー州最後アメリカ連合国加入する可能性が強いことを言うことだった。独立したアメリカ連合国アメリカ合衆国工業海洋野心制限しイギリスフランスおよびアメリカ連合国の間に互恵的通商同盟を結ぶに至ることとされていた。アメリカ合衆国の領土的野望が制限されれば、西半球における力のバランス回復される考えられた。イギリス支援独立勝ち取ろうとしているイタリアアメリカ連合国擬え、その支援正当化するラッセル自身文書引き合い出していた。差し当たり重要なこととして、北軍が行海上封鎖正当性に対して詳細な議論を行うこととされた。メイソンとスライデルは正式な文書と共に彼等立場支持する多く文書携行した

※この「外交認知の問題(1861年2月-8月)」の解説は、「トレント号事件」の解説の一部です。
「外交認知の問題(1861年2月-8月)」を含む「トレント号事件」の記事については、「トレント号事件」の概要を参照ください。

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