外交認知の問題(1861年2月-8月)
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「トレント号事件」の記事における「外交認知の問題(1861年2月-8月)」の解説
「トレント号事件」は1861年11月下旬まで大きな危機として浮上しなかった。この事件に至る連鎖の最初のものは1861年2月のことであり、アメリカ連合国がウィリアム・ローンズ・ヤンシー、ピエール・ロストおよびアンブローズ・ダッドリー・マンの3人からなるヨーロッパ代表団を造った。アメリカ連合国国務長官ロバート・トゥームズが彼等に与えた指示は、南部政府の性格と目的を説明し、外交関係を開き、「友好、通商および航行に関する条約の交渉」にあたることだった。また州の権限と脱退できる権利に関する長い法的な主張も含まれていた。綿花と国の正当性に関して二重に攻撃されることが重荷だったので、南部の港の封鎖、私掠船、北部との貿易、奴隷制度および非公式封鎖など多くの重要問題に関する指示が抜けていた。非公式封鎖は南部人が綿花を出荷できないように仕組まれたものだった。 イギリスの指導層、さらにはヨーロッパ大陸諸国の指導層は、アメリカ合衆国の分裂が避けられないと見るのが一般だった。北軍が「既成事実」に抵抗するのは不合理だと考えたが、北軍が対処しなければならない事実として、その抵抗を受け入れざるを得なかった。イギリスは戦争の帰趨が既に見えているものと考え、人道的な姿勢として戦争を終わらせるために採れる行動があると考えていた。ライアンズはラッセルから、戦争を終わらせる可能性があるならば、その職責と、その他の団体を用いるよう支持を受けていた。 アメリカ連合国の外交使節は5月3日にイギリスの外務大臣ジョン・ラッセルと非公式に会見した。既にサムター要塞攻撃の知らせがロンドンに届いていたが、この会見では即座に戦争が始まるというようなことは議論されなかった。代表団はその新しい国の平和を維持する意図を強調し、北部が州の権限を破った対抗手段としてその脱退の正当性を説明した。彼等はその強烈な主張の締めくくりとしてヨーロッパに対する綿花の重要性を述べた。ラッセルがヤンシーに、アメリカ連合国によって奴隷貿易が再開されるかを尋ねたときのみ、奴隷制度が議論された(ヤンシーは近い過去にそのようなことを提唱していた)。ヤンシーはそれがアメリカ連合国の計画に入っていないと答えた。ラッセルは言質を与えず、この問題を閣僚会議で議論することを約束しただけだった。 イギリスは一方で南北戦争に対する公式姿勢を決定しようとしていた。5月13日、ラッセルの進言に従ってヴィクトリア女王はアメリカ合衆国南部の交戦状態を認知することになる中立宣言を発した。これはアメリカ連合国の船舶が、外港でアメリカ合衆国の船舶が受けるのと同じ特権を受けられることを意味していた。アメリカ合衆国の船舶は中立国の港で燃料と物資を補給でき、修繕を受けられるが、軍需物資や武器は確保できないということだった。イギリスから遠く離れた植民地の港を使えるということは、世界中にある北軍の船舶を追撃できるということだった。フランス、スペイン、オランダおよびブラジルが追従した。交戦状態にあるということで、アメリカ連合国は物資を購入し、イギリスの会社と契約する機会が与えられ、北軍の船舶を探索して捕獲するために艦船を購入できることを意味していた。女王の宣言によって、イギリスは交戦するどちらの側にも軍事的に介入できず、戦争に使われる艦船の装備を行えず、海上封鎖を破れず、どちらの側の軍需物資、文書あるいは人員を運ぶこともできないことになっていた 。 5月18日、アダムズはラッセルに会って中立宣言に抗議した。アダムズは「彼等(アメリカ連合国)が、あらゆる利点が利用できる状況下に、領土内にある港の一つでの行動(アメリカ連合国が海洋における一つでも私掠行為を示す前にはそれらを海軍力と考えた)を除けば、如何なる種類の戦争も維持できるという能力を示す前に」イギリスが交戦状態を認めていると論じた。この時点でのアメリカ合衆国の主要な関心は、交戦状態の認知が国の外交認知に向けた第一歩だということだった。ラッセルは外交認知をその時点で考えていないことを示したが、将来的にそれを否定できないものであり、もしイギリス政府の態度が変わるようであれば、アダムズに知らせることに合意した。 一方ワシントンでは、イギリスによる中立宣言と、ラッセルがアメリカ連合国の代表団に会ったことに、スワードが動揺していた。スワードは5月21日付けのアダムズに宛てた手紙で、イギリスがアメリカ連合国代表団を受け入れたことに抗議し、アダムズにはイギリスが代表団と会合を続ける限り、イギリスには関わらないように命じた。イギリスが正式にアメリカ連合国を認知すれば、イギリスはアメリカ合衆国の敵になるところだった。リンカーン大統領はこの手紙を査閲し、表現を和らげ、アダムズにはラッセルに写しを渡さないこと、ただしアダムズが適切と考えた部分のみを伝えるように指示した。アダムズは修正された手紙に衝撃を受け、さらに全ヨーロッパに対して開戦の脅威を与えているようなものだと感じた。手紙を受け取った後の6月12日にラッセルと会見し、イギリスが平和を保っている国(アメリカ合衆国)に対抗する反乱者(アメリカ連合国)の代表としばしば会ってきたが、ラッセルはこれ以上代表団と会うつもりは無いことも告げられた。 8月半ばにアメリカ連合国の外交認知に関する問題がさらに広がった。スワードは、イギリスがアメリカ連合国とパリ宣言に盛られた条件への合意を得るために密かに交渉していることに気づいた。1856年のパリ宣言では、私掠船を廃止し、「戦時禁制品」を除いて交戦国に運ばれる中立国の商品を保護し、海上封鎖はそれが有効である場合のみ認めることとしていた。アメリカ合衆国は当初この条約に調印できなかったが、北軍がアメリカ連合国の海上封鎖を宣言した後、スワードがイギリスとフランスに駐在する大使達に、アメリカ連合国が私掠船を使うことを制限する交渉を再開するよう命じた。 しかし5月18日、ラッセルはライアンズにアメリカ連合国からパリ宣言に対する同意を得るよう指示していた。ライアンズはこの任務をサウスカロライナ州チャールストン駐在の領事ロバート・バンチに任せた。バンチはサウスカロライナ州知事フランシス・ピケンズに会うよう指示された。バンチはその受けた指示通りに動かず、ピケンズは省略して、アメリカ連合国にパリ宣言への同意が「(イギリスによる)外交認知の第1ステップ」だと請け合った。バンチの軽挙は間もなく北軍の耳に届いた。イギリス生まれでチャールストンの商人ロバート・ミュアがニューヨーク市で逮捕された。ミュアはサウスカロライナの民兵隊大佐であり、バンチが発行したイギリスの外交官パスポートを所持し、イギリスの外交文書用郵袋を運んでいた。この郵袋にはバンチからイギリスに宛てた通信文の他に、アメリカ連合国寄りの小冊子、南部人からヨーロッパの文通相手に宛てた個人的書簡、および外交認知に関する会話を含めバンチがアメリカ連合国と行った交渉を詳述するアメリカ連合国の報告書が入っていた。 この事態に直面したラッセルは、イギリス政府がアメリカ連合国から中立国商品(私掠によるものではない)に関する条約条項に対する合意を得ようとしていることを認めたが、それがアメリカ連合国に対する外交関係を拡大するための一歩であることは否定した。スワードは以前に交戦状態認知の時に示した反応とは異なり、この問題を追求しなかった。スワードはバンチの解任を要求したが、ラッセルは応じなかった。 ナポレオン3世治下のフランスにおける外交政策の目標はイギリスとは違っていたが、概して南北戦争の対戦相手に関してはイギリスと似た立場を採り、イギリスを支持することも多かった。イギリスとフランスの協業は、アメリカ合衆国駐在フランス大使のメルシエとライアンズの間で始まった。例えば6月15日に中立宣言に関して二人でスワードに会おうとしたが、スワードは別々に会見することに固執した。 1861年全期間と1862年秋までフランスの外務大臣はエドゥアルド・ソウヴネルだった。ソウヴネルは概して北軍寄りと考えられ、ナポレオン3世が当初アメリカ連合国の独立を外交認知しようと動いていたのを止めさせていた。ソウヴネルは6月にアメリカ連合国代表団の一人ピエール・ロストと非公式に会見し、外交認知を期待しないように告げていた。 リンカーン大統領はフランス駐在大使にニュージャージー州のウィリアム・L・デイトンを任命した。デイトンには外交の経験が無く、フランス語を話せなかったが、パリ駐在総領事のジョン・ビゲローから大いに助けられた。アダムズがラッセルにアメリカ連合国の交戦国認知に関して抗議したとき、デイトンは同様な抗議をソウヴネルに行った。ナポレオン3世は南部との紛争を解決するためにアメリカ合衆国に「調停案」を提案しており、それに対してスワードは「調停案が受け入れられるものであれば、我々がそれに向けて進むか受け入れるべきかはそれ次第である」と認めるようデイトンに指示した。 7月の第一次ブルランの戦いで南軍が勝利したという報せがヨーロッパに届いたとき、アメリカ連合国の独立は避けられないというイギリスの意見が強くなった。ヤンシーはこの戦場での成功という利点を生かすことを期待し、ラッセルとの会見を要請したが、これを拒否され、対話は文書によるべきことを告げられた。ヤンシーは8月14日に長い文書を提出し、アメリカ連合国が正式の認知を受けるべきとする理由を再度詳述し、ラッセルとの再会見を要請した。ラッセルが8月24日に「自称アメリカ連合国の」代表団に発した返事では、この戦争が独立のための戦争と言うよりも国内での問題だと認識するイギリスの立場を繰り返していた。イギリスの政策は「今後の戦局あるいはより平和的な交渉によって、交戦する二者のそれぞれの立場を決定づけるようなこと」があったときのみ変わることになる。会合の予定は立てられず、この時がイギリス政府とアメリカ連合国外交官との間に交わされた最後の対話となった。11月と12月にトレント号事件が起きると、アメリカ連合国はイギリスと直接対話する有効な方法を持たず、交渉の席から完全に外されたままとなった。 8月までにヤンシーは病気になって憤懣も募り、辞めようとしていた。やはり8月に、デイヴィス大統領は、一旦外交認知が済めば、アメリカ連合国大使として相応しい人物をイギリスとフランスに送る必要性があると決心していた。その選択はルイジアナ州のジョン・スライデルとバージニア州のジェイムズ・メイソンだった。二人とも南部中で広く尊敬を集めており、外交の経歴もあった。米墨戦争の終盤でジェームズ・ポーク大統領がスライデルを交渉担当に指名しており、またメイソンはアメリカ合衆国上院外交委員会で1847年から1860年まで委員長を務めていた。 1861年7月、バージニア州のR・M・T・ハンターがアメリカ連合国国務長官になった。ハンターがメイソンとスライデルに与えた指示は、当初の7州から11州に拡大したアメリカ連合国の強い立場を強調し、メリーランド州、ミズーリ州およびケンタッキー州も最後はアメリカ連合国に加入する可能性が強いことを言うことだった。独立したアメリカ連合国はアメリカ合衆国の工業と海洋の野心を制限し、イギリス、フランスおよびアメリカ連合国の間に互恵的通商同盟を結ぶに至ることとされていた。アメリカ合衆国の領土的野望が制限されれば、西半球における力のバランスが回復されると考えられた。イギリスの支援で独立を勝ち取ろうとしているイタリアにアメリカ連合国を擬え、その支援を正当化するラッセル自身の文書を引き合いに出していた。差し当たり重要なこととして、北軍が行う海上封鎖の正当性に対して詳細な議論を行うこととされた。メイソンとスライデルは正式な文書と共に、彼等の立場を支持する多くの文書を携行した。
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