外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 23:52 UTC 版)
「タウアイカ・ウタアトゥ」の記事における「外交経歴」の解説
2015年4月14日に北京市の人民大会堂で習近平国家主席に信任状を捧呈して、爾後、在中華人民共和国大使(中国語版、英語版)を務めている。
※この「外交経歴」の解説は、「タウアイカ・ウタアトゥ」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「タウアイカ・ウタアトゥ」の記事については、「タウアイカ・ウタアトゥ」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 10:14 UTC 版)
「アントニス・トゥマジス」の記事における「外交経歴」の解説
1983年、外務省(ギリシア語版、英語版)に入省。ニコシアでの本省勤務を経て、1986年から1991年にかけて在メキシコ大使館で一等書記官、領事を務める。1993年から1995年にかけて、在ギリシャ大使館で参事官。 1995年から1999年にかけて在ヨハネスブルグ総領事、うち1998年から離任まではヨハネスブルグ・プレトリア領事団長(英語版)。 2000年から2004年にかけて、在メキシコ大使兼ラテンアメリカ諸国12ヶ国担当の非常駐大使。 2004年から2008年にかけて、在デンマーク大使兼在アイスランド大使。 ニコシアでの本省勤務を経て、2011年より在スペイン大使。2011年11月22日、マドリードでフアン・カルロス1世国王に信任状を捧呈した。2013年1月18日、ブエノスアイレスでアマド・ブドゥー(スペイン語版、英語版)副大統領(スペイン語版、英語版)に信任状を捧呈した。 2018年6月20日、北京市の人民大会堂で習近平国家主席に信任状を捧呈した。2019年5月17日、ビエンチャンでブンニャン・ウォーラチット国家主席に信任状を捧呈した。2019年11月27日、平壌の万寿台議事堂で最高人民会議常任委員会の崔竜海委員長に信任状を捧呈した。
※この「外交経歴」の解説は、「アントニス・トゥマジス」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「アントニス・トゥマジス」の記事については、「アントニス・トゥマジス」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 00:06 UTC 版)
1991年にアメリカ合衆国国務省に入省。1991年12月から1993年12月まで在シンガポール大使館で領事部に勤務。1994年1月から1994年7月まで外務職員局所属となり、ワシントンD.C.でスワヒリ語研修を受講。1994年8月から1996年8月までケニアの在ナイロビ大使館で政治部に勤務。 1996年8月から1997年6月まで外務職員局所属で、ワシントンD.C.で経済研究員として勤務。1997年8月から1999年6月まで外務職員局所属で、ワシントンD.C.および中国の北京で中国語研修を受講。1999年7月から2002年7月まで中国の在北京大使館で経済部に勤務、当時は中国語の名前「楊舟」(ヤン・ゾウ)を付ける。2002年8月から2004年6月まで国務省経済・エネルギー・実業局で航空交渉部に勤務。 2004年7月から2007年7月までアイルランドの在ダブリン大使館で政治経済課長。2007年8月から2009年6月まで外務職員局所属で、ワシントンD.C.および日本の横浜で日本語研修を受講。2009年7月から2012年6月まで日本の在東京大使館で政治軍事課長。2012年8月からアメリカ太平洋軍外交政策次席顧問。2014年8月から国務省東アジア・太平洋局日本部長。 2017年8月から在日米国大使館首席公使 2019年7月にウィリアム・F・ハガティ駐日アメリカ合衆国大使が退任してアメリカ合衆国本国へ帰国したことにより、駐日臨時代理大使を務める。 2019年10月22日、皇居正殿松の間で今上陛下の即位礼正殿の儀が執り行われ、イレーン・チャオ運輸長官と共に参列した。 2021年6月17日、臨時代理大使としての任務を満了して日本を発った。
※この「外交経歴」の解説は、「ジョセフ・ヤング」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「ジョセフ・ヤング」の記事については、「ジョセフ・ヤング」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 05:44 UTC 版)
「イラクリ・アラサニア」の記事における「外交経歴」の解説
2004年9月28日、ジョージア大統領ミヘイル・サアカシュヴィリはアブハジア亡命政府議長にアラサニアを任命した。2005年2月15日、サアカシュヴィリ大統領はジョージアとアブハジアの和平会談に対する補佐官としてアラサニアを起用。当初はアブハジア独立主義の指導者からの反対を受けたが、後に国際連合グルジア監視団の圧力下で受け入れられた。この期間中、アラサニアは複数のアブハジア政治家と良好な関係を築くことに成功し、2006年3月には両国間の直接交渉の場となるジョージア=アブハジア調整委員会を再開するための役割を担った。同月、ジョージアとアブハジアの交渉からアラサニアを排除することは直近の良好な勢いを妨げることにつながる可能性があるという専門家の意見から、アラサニアはジョージア代表の国連大使に任命された。 アラサニアはアブハジア問題に取り組み、その努力によって、国連総会においてジョージアにおける紛争の被災者問題が議論された。その結果、資産の返還や、難民・国内避難民のアブハジア帰還権を認める決議 GA/10708 が採択された。その後もアラサニアは大統領特使としてアブハジア問題への対応を続けた。2008年5月12日、アラサニアは非公式にスフミを電撃訪問し、ジョージアとアブハジアの和平計画を発表した。この動きは、ジョージア=アブハジア間の交渉の膠着状態と、アブハジアに対するロシア=ジョージア間の緊張の高まりの中での出来事であった。 2008年の南オセチア紛争の際、国連大使であったアラサニアはジョージア側のキーパーソンとして機能し、国連安全保障理事会との交渉を担った。アラサニアは国際連合および国際的な圧力による迅速かつ決定的な紛争終結のための圧力を求めた。2008年12月4日、アラサニアはジョージア政府がロシアとの紛争に介入することを懸念し、国連大使を辞任した。
※この「外交経歴」の解説は、「イラクリ・アラサニア」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「イラクリ・アラサニア」の記事については、「イラクリ・アラサニア」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:05 UTC 版)
フランス外務省入省後、1996年から1999年にかけて在イタリアフランス大使館(フランス語版)一等書記官として、1999年から2004年にかけて欧州連合(EU)フランス政府代表部参事官として在外勤務。 帰国後はパリの本省で、2004年から2006年にかけて欧州協力局総務・EU将来部長、2006年から2009年にかけて同局EU域内務部長、2009年から2013年にかけて欧州連合局EU域内政策・制度問題部長を歴任。 2013年から2016年にかけて、政治・安全保障委員会(英語版)(COPS/PSC)フランス政府代表部大使としてブリュッセルで在外勤務。 2016年から2020年にかけて欧州局長として本省勤務。 2020年9月30日、同日付けのデクレにより次期駐日大使(英語版)に任命される。同年11月27日、皇居で天皇陛下に信任状を捧呈して駐日大使に就任。
※この「外交経歴」の解説は、「フィリップ・セトン」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「フィリップ・セトン」の記事については、「フィリップ・セトン」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 18:07 UTC 版)
1992年、英外務省に入省。1993年から1995年にかけて朝鮮語の訓練を受ける。1995年から1999年にかけて在大韓民国英国大使館(朝鮮語版)二等書記官、のちに一等書記官。その後、ロンドンでの本省勤務を経て、2002年から2006年にかけて在アメリカ合衆国英国大使館(英語版)一等書記官。2008年には、一時的に在朝鮮民主主義人民共和国臨時代理大使を務めた。帰国後、本省にて対北朝鮮上級政策顧問など。2011年から2015年にかけて在インドネシア欧州連合代表部外交序列第二位、のちに臨時代理大使。2015年から2018年にかけて、在中華人民共和国英国大使館(英語版)公使参事官。
※この「外交経歴」の解説は、「コリン・クルックス」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「コリン・クルックス」の記事については、「コリン・クルックス」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 20:53 UTC 版)
2013年5月31日に初めて在中華民国キリバス大使館が設置され、同年6月13日、イウタが初代大使として馬英九総統に信任状を捧呈。 2014年7月11日、駐日大使として東京を訪問し、皇居で信任状を捧呈した。 2018年4月23日、中華民国とキリバスの友好関係(中国語版)を促進した功績を讃えられ、中華民国政府より大綬景星勲章(中国語版、英語版)を受章した。同年5月1日、蔡英文総統に謁見し、離任の挨拶をした。
※この「外交経歴」の解説は、「テーコア・イウタ」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「テーコア・イウタ」の記事については、「テーコア・イウタ」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 21:13 UTC 版)
「ダイアン・ヘイロック」の記事における「外交経歴」の解説
2016年10月19日、中華民国総統・蔡英文に信任状を捧呈した。 2018年7月11日、駐日大使として東京を訪問し、皇居で信任状を捧呈した。 2019年10月22日、皇居正殿松の間で今上天皇の即位礼正殿の儀が執り行われ、コルヴィル・ヤング(英語版)総督と共に参列した。 2020年12月29日、中華民国とベリーズの友好関係(中国語版、英語版)を促進した功績を讃えられ、中華民国政府より大綬景星勲章(中国語版、英語版)を受章した。
※この「外交経歴」の解説は、「ダイアン・ヘイロック」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「ダイアン・ヘイロック」の記事については、「ダイアン・ヘイロック」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/25 17:06 UTC 版)
「アレクシ・ペトリアシヴィリ」の記事における「外交経歴」の解説
ペトリアシヴィリは元首府の国家物流局外交部で上級専門職員として職歴を開始した。彼は1994年初頭から各国省庁とコミュニケーションの確立に取り組み、各国首脳がジョージアを訪問するための準備を行った。彼は専門経験を重ね、国家顧問、外交政策分析官、首相府職員、大統領府職員を歴任。1995年から1998年には地域安全保障や政治動向の分析に携わった。また各国首脳がジョージアを公式訪問する際には、会談の議題や分析情報をジョージア大統領に提供する役割を担った。1998年、ペトリアシヴィリはジョージア外務省の政治軍事局において二国間関係部の部長に就任。アメリカの省庁代表団とともに二国間の政治的および軍事的関係の双方向的な改善を協議し、安全保障対話を推進した。1998年末、政治軍事局で副局長に就任。NATO国際職員および関連省庁とともに平和のためのパートナーシップ協定の枠組み協議を行い、また対外援助の安定化や国防能力の強化予算配分調整を担った。 ペトリアシヴィリは2001年から2002年にかけて、駐オーストリア大使館上級参事官、欧州安全保障協力機構ジョージア代表、国連工業開発機関ジョージア代表、国連薬物犯罪事務所ジョージア代表を歴任。続いて2002年から2004年にかけて駐アメリカ大使館、駐メキシコ大使館、駐カナダ大使館でそれぞれ上級参事官を務めた。彼はアメリカ国務省やアメリカ国防総省その他の政府機関と連携し、(1)政治的および軍事的問題(ジョージアからのロシア軍撤退、ジョージアのNATO加盟、国際安全保障活動への参加、地域安全保障問題など)、(2)経済協力および財政問題(ジョージアに対する財政援助および技術支援に関する予算範囲交渉、USAIDによる新たな援助計画の企画、アメリカエネルギー省とのエネルギー提携に関する短期的および長期的な戦略の策定、ミレニアム・チャレンジ・アカウントをジョージアに導入する交渉など)、について担当した。彼は国家予算の実現性評価について検討し、多国間の協力によって今後の会計年度内で実施できる範囲の詳細を国際通貨基金や世界銀行と協議した。またパリクラブ合意の条件に従って対外債務を再編し、国際金融公社がジョージアの民間部門に積極的に参入できるようにするために、高官レベルの交渉の手配を行った。 ペトリアシヴィリは2004年から2009年まで駐トルクメニスタン大使および駐アフガニスタン大使を務めた。彼の主たる任務はトルクメニスタンやアフガニスタンとの経済的関係および政治的関係を改善することであり、トルクメニスタンからのエネルギー資源の輸送経路を多様化するための二国間協議および多国間協議に積極的に参加した。また東西エネルギー連携および輸送回廊の実現や、アフガニスタン経済の復興に向けた二国間プロジェクトおよび三国間プロジェクトといった案件に関与した。彼はアフガニスタン政府や国連カブール事務所と調整を行い、アフガニスタンに対する人道支援や教育支援、エネルギー支援等を推し進めた。
※この「外交経歴」の解説は、「アレクシ・ペトリアシヴィリ」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「アレクシ・ペトリアシヴィリ」の記事については、「アレクシ・ペトリアシヴィリ」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 08:52 UTC 版)
「モハンマドホセイン・アーデリー」の記事における「外交経歴」の解説
アーデリーの外交経歴は駐日イラン大使に任命されたことから始まり、1987年から1989年にかけて大使を務めた。駐日大使の任にあった1989年1月7日、60年以上も在位していた昭和天皇が崩御し、翌2月24日に大喪の礼が執り行われた。アーデリー大使は、自身の夫人を伴ってモスタファー・ミールサリーム(ペルシア語版、英語版)副大統領、モハンマドホセイン・サッファール・ハランディー(ペルシア語版、英語版)国会議員(農業委員長)と共に参列した。在任中、イランと日本の通商関係や政治関係を再び活性化させるという目的において彼は重要な役割を果たした。 帰国後まもなく、36歳でイラン・イスラム共和国中央銀行の総裁に任命された。アーデリーは、イラン・イラク戦争後の復興という厳しい時期において経済改革パッケージの先駆者として名声を得た。一連のマクロ経済の適正化の中で、為替政策と金融政策を劇的に改善することにより、アーデリーは強くて持続性のある結果をもたらした。 アーデリーの外交経歴は、1995年に駐カナダ・イラン大使に任命されたことで更に発展した。任期の最終年であった1999年にアーデリーは外務副大臣および対外経済連合協議会 (Coordinating Council for Foreign Economic Relations) に指名され、2004年まで任期にあった。この数年の在任期間中、アーデリーはアフガニスタン復興(英語版)およびイラク復興(英語版)のための二つの特別委員会を設置した。 最後の外交の公職として、彼は駐英イラン特命全権大使(ペルシア語版、英語版)を務めた。
※この「外交経歴」の解説は、「モハンマドホセイン・アーデリー」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「モハンマドホセイン・アーデリー」の記事については、「モハンマドホセイン・アーデリー」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 08:41 UTC 版)
「ジャスミン・ハギンス」の記事における「外交経歴」の解説
2008年1月28日に初めて在中華民国セントクリストファー・ネイビス大使館が設置され、2010年4月19日、ハギンスが台北常駐では初代となる特命全権大使として馬英九総統に信任状を捧呈。 2018年7月5日、駐日大使として東京を訪問し、皇居で信任状を捧呈した。 2019年10月22日、皇居正殿松の間で今上天皇の即位礼正殿の儀が執り行われ、マーク・ブラントリー(英語版)外務大臣(英語版)と共に参列した。同月25日、鈴木馨祐外務副大臣を表敬訪問し、令和元年東日本台風(台風19号)の被害に対して見舞いを述べた上で、両国の友好的な協力関係を更に強化させたいとの点で見解を一致させた。 2021年8月15日現在、セントクリストファー・ネイビス大使としての中華民国駐箚歴は信任状捧呈日から起算して通算4137日となっており、2020年8月にニカラグアのタピア(達比亞)大使が離任して以来、現職の在中華民国各国大使のうち最も駐箚期間が長い。
※この「外交経歴」の解説は、「ジャスミン・ハギンス」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「ジャスミン・ハギンス」の記事については、「ジャスミン・ハギンス」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 01:13 UTC 版)
「アンドレアス・バオム」の記事における「外交経歴」の解説
1991年に連邦外務省(ドイツ語版、フランス語版、イタリア語版、英語版)に入省し、ベルン、ジュネーブ、アンカラにて外交官研修。 1993年、ベルンの本省へ戻って政治部(欧州・北米担当)に配属。1996年から2000年にかけて、外務事務次官秘書官。 2000年から2004年にかけて、在カナダ大使館(イタリア語版)公使。2004年から2008年にかけて、在ニューヨーク国際連合政府代表部公使。 2008年から2012年にかけて、アブジャ常駐の在ナイジェリア特命全権大使兼非常駐のチャド大使兼ニジェール大使。 2012年から2016年にかけて、在イスラエル特命全権大使。 2016年から2020年にかけて、ニューデリー常駐の在インド特命全権大使兼非常駐のブータン大使。 2020年10月、次期駐日大使として東京に着任。同年11月19日、皇居で今上天皇に信任状を捧呈して駐日大使に就任した。 2021年7月24日、ギー・パルムラン大統領の訪日に合わせて在大阪スイス領事館の新設記念式典が開催されたが、この式典にはバオム大使とメスナー領事も参加している。
※この「外交経歴」の解説は、「アンドレアス・バオム」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「アンドレアス・バオム」の記事については、「アンドレアス・バオム」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 00:39 UTC 版)
1990年、外務省(ギリシア語版、英語版)に入省。1990年から1991年にかけて欧州局で本省勤務。 1991年から1993年にかけて在オーストラリア高等弁務官事務所二等書記官、領事。1993年7月から8月にかけて高等弁務官代理。1993年から1996年にかけて在チェコ大使館一等書記官、領事。 1996年から1997年にかけて二国間関係局次長として本省勤務。 1997年から2000年にかけて国際連合キプロス政府代表部参事官、副館長。 2000年8月から2002年7月にかけて儀典次長として本省勤務。 2002年8月から2006年6月にかけて在スペイン大使館公使参事官。 2006年6月から2009年5月にかけて儀典次長として本省勤務。2009年6月から2010年1月にかけて在外キプロス人部で本省勤務。 2010年1月から2013年7月にかけて在ケニア高等弁務官(大使に相当)兼アフリカ諸国6ヶ国担当の非常駐高等弁務官。 2014年5月から2018年5月にかけて在中華人民共和国大使(中国語版)兼非常駐の駐日大使(信任状捧呈は2016年7月21日)、駐朝大使、在モンゴル大使等。 2018年5月31日より、在インド高等弁務官を務めている。
※この「外交経歴」の解説は、「アイス・ロイズ」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「アイス・ロイズ」の記事については、「アイス・ロイズ」の概要を参照ください。
外交経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 15:47 UTC 版)
1981年に外務省へ入省して、まず半年ほど移民局で奉職した後、三等書記官として配属された在スリランカ高等弁務官事務所で2年ほど勤務。 1983年10月から1984年6月にかけて、パキスタンの首都イスラマバードで外交官養成プログラムを修める。1991年10月から1992年10月にかけて、イギリスのオックスフォード大学で外交官養成プログラムを修める。 2006年から2007年にかけて駐日モルディブ臨時代理大使として大使館開設に携わった後、2007年から2009年にかけて国連大使。 2009年から2016年にかけて駐日モルディブ大使(信任状捧呈式は任命の翌年2010年に執り行われた)。 2013年4月18日、非常駐の在大韓民国大使として同国の首都ソウルを訪問し、青瓦台で朴槿恵大統領に信任状を捧呈した。 カリールが駐日大使として在任中の2015年12月15日、安倍晋三内閣総理大臣が日本語を話す駐日各国大使24名を総理公邸に招いて昼食会を主催したが、カリール大使も参加した各国大使のうちの一人であった。 2016年10月3日、外務省の二国間関係担当次官に任命される。2018年6月14日、東京で開催された第1回日・モルディブ政策対話に二国間関係担当次官として参加して滝崎成樹南部アジア部長らと意見交換を行った。 2018年11月22日、外務担当国務大臣に任命される。2019年8月27日、モルディブの首都マレで開催された第2回日・モルディブ政策対話に外務担当国務大臣として参加して滝崎成樹南部アジア部長らと意見交換を行った。2021年3月4日、オンラインのビデオ会議形式で開催された第3回日・モルディブ政策対話に外務担当国務大臣として参加して小林賢一南部アジア部長らと意見交換を行った。2021年10月4日、カリール外務担当国務大臣はマレで柳井啓子駐モルディブ日本大使と供与限度額4億円の無償資金協力「経済社会開発計画」に関する書簡の署名・交換を行った。2022年5月30日、マレで竹内みどり駐モルディブ日本大使と供与額6.50億円の無償資金協力「経済社会開発計画」に関する書簡の署名・交換を行った。
※この「外交経歴」の解説は、「アハメド・カリール」の解説の一部です。
「外交経歴」を含む「アハメド・カリール」の記事については、「アハメド・カリール」の概要を参照ください。
- 外交経歴のページへのリンク