外交的側面とは? わかりやすく解説

外交的側面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)

太平天国の乱」の記事における「外交的側面」の解説

太平天国軍が長江下流域支配するうになると、当時上海租界設けていた西欧列強英米仏)は座視できない考えたキリスト教信仰する太平天国台頭歓迎すべきか、脅威ととるべきか列強内部でも意見分かれた。そこでとりあえ使節団派遣することになる。 1853年4月イギリス公使ボナムは天京直接出向き南京条約といった既得権益を侵さぬ限り内戦には干渉せず中立を守ることを洪秀全らに伝えた。しかし太平天国側は列強朝貢国として遇し対話噛み合わなかった。 こうした外交姿勢中華思想的といえようが、興味深いのは華夷の別は中国文化程度によるのではなくキリスト教の信仰有無による点である。したがって太平天国にとって近しいのは清朝よりも西欧であった洪秀全らは西欧を「洋兄弟」と呼び自身では厚遇していたつもりだった。 こうした太平天国側の外交姿勢イギリス他の列強失望した折しもアロー戦争列強有利な形で妥結すると、太平天国よりも清朝肩入れ開始するうになる。その一つ後述する常勝軍である。

※この「外交的側面」の解説は、「太平天国の乱」の解説の一部です。
「外交的側面」を含む「太平天国の乱」の記事については、「太平天国の乱」の概要を参照ください。

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