本省勤務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:00 UTC 版)
1891年(明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争時には海軍大臣副官となる。 山本は海上権という新しい概念を陸軍首脳へレクチャーし、それ以後、日清戦争における陸海軍の作戦が比較的スムーズに進んだ。当時海軍軍令部は独立しておらず、陸軍参謀本部の中に含まれていた。山本は軍令部の独立を主張し、その独立までには10年の歳月が掛かった。 日清戦争後は、三国干渉から将来のロシア帝国の脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な海軍における行政改革を断行した。当時の山本は軍務局長であったが、新聞各紙で「権兵衛大臣の独断専行」という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められたが、海軍大臣の西郷従道は、すべて山本に任せて自分が責任を取るとして改革を進めさせた。 特に将官8人、尉佐官89人に及ぶ士官のリストラには、現役の軍令部長の中牟田倉之助さえも対象となる世界の海軍でも例を見ない大リストラであり、山本と個人的に親しかった士官も容赦なく整理対象とされたので、個人的批判が巻き起こった。山本に全てを任せた西郷従道さえも、一時は疑問を呈したが、緊急の場合には、予備役を召集すれば良いとの説明に最終的には同意した。
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