本省所在地の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 22:49 UTC 版)
第一期 - 京橋区木挽町(中央区銀座)工部省電信局として使用すべく現在の銀座郵便局敷地に建設され落成したばかりの洋風2階建て煉瓦造の庁舎を、逓信省発足直後から本省として使用した。1907年(明治40年)1月22日の火災で焼失したあと、同地に煉瓦造3階建ての新庁舎が1909年(明治42年)6月完成し引き続き本省として使用した。郵便博物館(のちの逓信総合博物館の前身)が同居。詳細は「東京南部小包集中局#沿革」および「新東京郵便局#沿革」を参照 第二期 - 麹町区大手町(千代田区大手町)木挽町の庁舎が1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失したあと、逓信省は大手町の内閣印刷局跡地(逓信ビルを経て現・大手町プレイス敷地。日本郵政本社が入居)に建てられた木造平屋の仮庁舎を本省として使用した。帝国議会の新議事堂が完成したあとに、仮議院が使用していた場所(現・経済産業省総合庁舎旧館敷地)に逓信省の新庁舎を建設する計画だったが、新議事堂建設が長引いているうちに昭和恐慌や日中戦争が始まり新庁舎建設の機会を逸してしまった。郵便博物館は庁舎焼失直前の1922年に麹町区富士見町(現・東京逓信病院敷地)に移転拡張し、「逓信博物館」と改称している。詳細は「逓信総合博物館#沿革」および「国会議事堂#歴史」を参照 「国立印刷局#歴史」および「東京逓信病院#旧跡・旧建物」も参照 第三期 - 麻布区飯倉町(港区麻布台)大手町の木造仮庁舎が余りにも長く続いたあと、1943年(昭和18年)秋に、当時貯金局が使用中の飯倉庁舎(現・日本郵政グループ飯倉ビル)を通信院の本庁舎として移転使用することとなった。この庁舎は、紀州徳川侯爵家の邸宅跡地に建設され、1931年(昭和6年)から貯金局が使用していたものである。なお、この飯倉庁舎の所在地を俗に"狸穴"と呼ぶことが多く、そのためこの場所の旧町名も狸穴町であったものと混同されがちだが、狸穴町を旧町名としていた区域は飯倉庁舎とは道路を挟んで反対側のロシア大使館周辺である。詳細は「麻布狸穴町#残された旧町名」および「港区 (東京都)#町名」を参照 飯倉町の庁舎は通信院から逓信院を経て逓信省復活後も引き続き使用され、二省分離後も郵政省と電気通信省とが共用していた。電気通信省は日本電信電話公社への移行後しばらくして赤坂葵町(現虎ノ門)に仮移転したが、郵政省は1969年(昭和44年)7月の霞が関移転まで長らく飯倉に本省を置いた。詳細は「郵政省#旧本庁舎(飯倉ビル)」および「麻布郵便局#旧局舎(飯倉ビル)」を参照
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