連合国の支援対象の変移
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「ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「連合国の支援対象の変移」の解説
連合国は当初、ドラジャ・ミハイロヴィッチのチェトニクを支援していたが、後期にはパルティザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルティザンは連合国の支援対象となった。 西側連合諸国の情報機関は、パルティザンとチェトニクの双方に接触を図っており、連絡員たちによってこれらの抵抗組織から集められる情報は組織への補給において極めて重要であり、また連合国のユーゴスラビア戦略を決定づける要因であった。情報機関の活動は最終的に、チェトニクへの支援停止とティトーのパルティザンへの支援へと結びついた。1942年の時点では補給支援はわずかであり、チェトニクとパルティザンの双方に等しく与えられていた。これが1943年になると状況は一変する。ドイツは黒作戦(英語版)(スティエスカの戦い、第5次反パルティザン攻勢)を遂行していた時、イギリスはウィリアム・ディーキン(英語版)を情報収集のためにパルティザンの元へ送り込んだ。 ディーキンの報告には2つの重要な観察結果が記されていた。1つめに、パルティザンはパルティザンがドイツ軍第1山岳師団(英語版)および第104軽師団に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられている。そして2つめに、ドイツ軍第1山岳師団がチェトニク支配下の領域を通行してロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラビアの航空作戦を強化し、そして支援方針を転換させるものとなった。1943年9月、ウィンストン・チャーチルの指示により、パルティザンと接触を図るために、イギリスの准将サー・フィッツロイ・マクリーン(Sir Fitzroy MacLean)がドルヴァル川近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルティザンもまた連合国の支援を受けられるようになった。 テヘラン会談以降、パルティザンは公式にユーゴスラビアにおける解放軍として認められ、マクリーンの提案にもとづき、イギリス空軍はパルティザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的としてバルカン空挺部隊(英語版)を設立した。 連合国の空軍は、1944年5月末の第7次反パルティザン攻勢(英語版)(レッセルスプルング作戦)への対応として初めてクロアチア独立国空軍およびドイツ空軍の基地や航空機を対象として攻撃を実施した。それまでは、枢軸国の航空機は内陸部において低空を自由に飛行できる状態にあった。地上で戦うパルティザンは度々、枢軸の航空機が彼らを攻撃する間、多数の連合国の航空機がより高い高度に留まっていることを苦々しく思っていた。しかしこの時点を境に連合国は初めて、大規模に低空に降りてくるようになり、域内の航空優勢を確立した。これによって、クロアチア独立国空軍およびドイツ空軍は晴天下での作戦を早朝および夕刻に限定されることとなった。 1944年1月、ティトーのパルティザンはバニャ・ルカへの攻撃に失敗した。しかしこれによってティトーが撤退を余儀なくされた間、ミハイロヴィッチ率いるチェトニクが何も行動を取らなかったことが西側のメディアでも報じられた。1944年1月16日、アドリア海のヴィス島にて、ペータル2世を首班とするユーゴスラビア王国亡命政府とパルティザンとの間でティトー=シュバシッチ合意(英語版)が交わされた。合意では、王国の亡命政府とパルティザンの双方を含むユーゴスラビアの新政府の樹立が約束され、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)と亡命政府の統合が定められた。ティトー=シュバシッチ合意はまた、すべてのスロベニア人、クロアチア人およびセルビア人に対してパルティザンに加わるよう求めた。こうしてパルティザンはユーゴスラビア王国亡命政府より自国の国軍として認められた。ミハイロヴィッチらチェトニクはパルティザンへの参加要求を拒絶した。 1945年3月30日から4月8日にかけて、ミハイロヴィッチ率いるチェトニク一派は、自らがユーゴスラビアで枢軸と戦う信頼するに足る勢力であることを示すための最後の行動に打って出た。チェトニクの中佐・パヴレ・ジュリシッチ(英語版)は、ウスタシャおよびクロアチア独立国軍を相手にリイェヴチャ平原の戦い(英語版)を敢行した。1945年3月末、クロアチア独立国軍の精鋭部隊がスレム戦線を離れ、クロアチア独立国北部で戦うジュリシッチらへの対応にあたった。両者はバニャ・ルカで衝突し、クロアチア独立国側が決定的勝利を収めた。
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