連合国のバルカン半島への攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:11 UTC 版)
「ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「連合国のバルカン半島への攻勢」の解説
詳細は「ベオグラード攻勢」を参照 1944年8月、ルーマニアでミハイ1世のクーデターが成功し、ルーマニアは枢軸を離脱、ルーマニア国軍はソビエト赤軍の司令下に置かれた。ルーマニア軍はドイツ軍に対する戦いを開始、プラハの戦いに従事した。ブルガリアも9月10日に同様に枢軸を離脱、ドイツおよび残りの枢軸諸国への宣戦を布告した。枢軸国がブルガリアに差し向けた戦力はしかし不十分であり、すぐにブルガリアから追い返された。ユーゴスラビア領マケドニアに残されたブルガリア軍はドイツ軍に包囲され、また高位の指揮官の裏切りもあり、ブルガリア領への退路を開くための戦いを余儀なくされた。ブルガリアの3つの軍は45万5千人の兵力を擁し、1944年9月にティトー率いるパルティザンの同意を得て、ソフィアからユーゴスラビア領のニシュおよびスコピエに進駐、ギリシャから撤退するドイツ軍を阻止する戦略的役割を果たす。ユーゴスラビア領のセルビア西部、南西部およびマケドニアはその後2か月の間に13万人の兵力を擁するブルガリア第1軍(英語版)によって解放され、その後ブルガリア軍はハンガリーへと北に攻勢を続けた。 連合国の航空支援とソビエト赤軍の協力を受け、パルティザンは枢軸国に支配され傀儡国家となっているセルビアへと向かう。セルビアでは1941年のウジツェ共和国(英語版)の瓦解(第1次反パルチザン攻勢(英語版))以降、パルティザンの活動は小規模にとどまっていた。9月にはパルティザンは赤軍と協力してベオグラード攻勢(英語版)を敢行、10月20日にベオグラードを解放した。この年の冬にはパルティザンはセルビアの半分、ユーゴスラビア領マケドニア、モンテネグロ、そしてダルマチア沿岸部の大半を統制下に置くようになる。ドイツ国防軍とウスタシャ支配のクロアチア独立国はスレム地方に戦線を張り(英語版)、この冬の間これを維持し、ギリシャから撤退してくるドイツ軍を支援した。パルティザンの兵員確保のために、ティトーは1944年12月31日までにパルティザンに加わる全ての者への免責を宣言した。
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