連合国およびアメリカ合衆国への協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 15:56 UTC 版)
「アルトゥール・ルドルフ」の記事における「連合国およびアメリカ合衆国への協力」の解説
1945年7月から10月にかけて、ルドルフはバックファイア作戦(英語版)に参加する為にイギリスへ送られ:99、その後アメリカ合衆国側に身柄が戻されている。アメリカ陸軍は赤軍による占領を受けるより先にシュテプファースハウゼンからルドルフの妻マルタと娘マリアンネを連れ出しており、一家は共にランツフート近くのキャンプ・オーバーキャストに収容された:101。1945年11月、オーバーキャスト作戦の元でルドルフやフォン・ブラウンを始めとするV2ロケット設計チームの身柄が6ヶ月間の滞在予定でアメリカ合衆国本土へと移される。この作戦は1946年3月にペーパークリップ作戦と改称され、1946年8月には当時のアメリカ合衆国大統領であるハリー・トルーマンが正式にこれを認可した。この作戦の元で渡米した技術者のほとんどがアメリカ合衆国への永住を選んだ。 フォート・ストロング(英語版)での簡単な聴取の後、技師グループはホワイトサンズ性能試験場に送られ、1946年1月にはV2ロケットに関する工学的な技術解説を求められている。1947年1月、ルドルフはテキサス州エルパソのフォート・ブリス(英語版)内に設置されていた火器研究開発部(Ordnance Research and Development Division)に移り、同年4月には家族もここに送られてきた。ドイツ人らは正式なビザ発行を受けぬままアメリカ合衆国へ渡っていたので、一時的にメキシコ・フアレスに移され、1949年4月14日になってから正式なビザ発行および移民としての受け入れが行われた。フォート・ブリスに暮らしている間、ルドルフはソーラー・エアクラフト社の連絡役を務め、1947年から1949年まではカリフォルニア州サンディエゴで過ごした。 1949年、ルドルフは連邦捜査局(FBI)による取り調べの中で、NSDAPへの参加について次のように語った。 私は1930年まで社民党に共感を覚えて彼らに投票していたし、社会民主連盟──技術社員・公務員連盟(Bund Technischer Angestellter und Beamter)のことだ──の会員だった。1930年以降、経済の状況は非常に深刻なものとなり、私には破滅に向かっているようにしか思えなかった。実際、1932年には私も失業者になった。こうした大量の失業者が国家社会主義と共産主義の政党を拡大へと導いたのだ。そして後者が政権を握ることを恐れ、私はNSDAPを支持し、入党した。彼らが西洋文化を保護してくれると信じていたからだ。 1950年6月25日、ルドルフはアラバマ州ハンツビルのレッドストーン兵器廠に移り、この際に彼の所属するグループは誘導ミサイル兵器センター(Ordnance Guided Missile Center)に改組されている。1954年11月11日、アラバマ州バーミングハムにて帰化手続きを行いアメリカ合衆国国民としての市民権を獲得する。1950年、レッドストーン・ミサイル計画の技術責任者となる。1956年にはパーシング・ミサイルの計画責任者を務める。この際、彼はプロジェクトの主契約業者としてマーティン社を選んでいる。またニュージャージー州テターボロのイクリプス・パイオニア(英語版)社工場を個人的に視察した後、同社を誘導装置開発の担当に選んだ。 1959年2月23日、フロリダ州ウィンターパーク(英語版)にあるローリングス大学(英語版)より、名誉科学博士号(honorary doctorate of science)を授与された。またパーシング・ミサイルの開発への貢献に対し、アメリカ合衆国陸軍省より軍属として受章できる記章のうち最高級のものとなる陸軍省軍属特例記章(英語版)を授与されている。
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