連合国と白軍
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「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「連合国と白軍」の解説
ドイツ帝国が連合国へ降伏すると、ドイツ帝国の同盟者であったウクライナ国はドイツ帝国の駐留地へ進駐を始めた連合国軍の脅威の下に晒されることになった。この状況下で、ウクライナ国海軍司令官 V・Ye・クロチュコーウシクィイ(ポーランド語版) 海軍少将は、麾下の艦船へアンドレイの旗を掲揚するよう命じた。これにより、かつての同盟国の共感を呼ぼうとしたのである。しかし、イギリス・フランスを中心とした連合国軍はこの艦隊を戦利品として扱った。「パーミャチ・メルクーリヤ」もほかの艦船とともに11月24日には進駐した連合国軍に接収され、艦上にはイギリスの海軍旗が掲げられた。艦名は、12月には元の「パーミャチ・メルクーリヤ」に戻された。その後、艦船の一部は連合国がソビエト政権との戦いに利用しようと考えた義勇軍(ロシア語版)へ引き渡されたが、大半は港に繋留されたまま放置された。また、ウクライナ国にとってかわったウクライナ人民共和国はクリミアや沿岸地域を喪失したため、ウクライナ政府が主張していた艦隊の保有権は簡単に踏み躙られた。 ロシアのかつての同盟者であったイギリス海軍は、世界大戦と内戦の全期間、それにドイツによる占領期間を含めたいかなる時期におけるよりも、はるかにひどい被害を黒海艦隊艦船に与えた。1919年4月末、セヴァストーポリに迫る赤軍を前に撤退を図るイギリス海軍は、巡洋艦「カリプソ」艦長の指示の下、南ロシア海軍司令官 M・P・サーブリン提督の了解もなしに、無断で黒海艦隊の処分を開始した。4月26日、イギリス人水兵らはまず手始めに黒海艦隊の潜水艦 11 隻を港外へ引き出し、爆破して沈めた。続いて 6 隻の戦列艦と巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」、 3 隻の艦隊水雷艇、軍事的価値はほとんどなかった旧式の水雷艇や倉庫になっていた輸送船まで、各艦船の主機の高圧シリンダーやベアリングに爆薬を仕込んでこれを吹き飛ばした。 この事件により、艦船のその後の運命は決定付けられた。内戦終結後、爆破された「レヴォリューツィヤ」(旧『エフスターフィイ』)、「イオアン・ズラトウースト」、「ボレーツ・ザ・スヴォボードゥ」、「パーミャチ・メルクーリヤ」の修復をしようと試みたソビエト政府は、確かに人材や資材、資金の不足のためもあったが、何よりその損傷のあまりのひどさに復旧を諦めざるを得なかったのである。 連合国軍が撤退したのち、1919年4月29日には第 2 ウクライナ・ソビエト軍(ウクライナ語版)に接収され、ウクライナ社会主義ソビエト共和国赤色海軍(ウクライナ語版)へ編入された。 1919年6月24日には、勢力を盛り返した南ロシア軍に奪還された。その後、南ロシア軍の組織改編に伴い、所属をロシア軍に移した。1920年11月14日にロシア軍はセヴァストーポリを去ってイスタンブールへ向かったが、イギリス軍によって機関を破壊されていた「パーミャチ・メルクーリヤ」は自力航行ができず、曳航もされずにセヴァストーポリへ取り残された。
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