連合国への傾斜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 20:18 UTC 版)
「フランシスコ・フランコ」の記事における「連合国への傾斜」の解説
1943年頃よりヨーロッパおよびアフリカ戦線において完全に連合国が優勢になると、再び中立を固持するという日和見な姿勢に終始した。1944年頃になると、青師団について連合国側各国から非難が集まったためフランコは撤兵を約束、国内に対して反対する者は厳罰に処する、と声明した。さらに太平洋戦線においても日本軍が完全に劣勢となった1945年に起きたマニラの戦いにおいては、在留スペイン人の損害問題を理由に日本と断交した。 フランコは第二次世界大戦を次のように見ていた。「世界では全く別の二つの戦争が戦われている。第一にヨーロッパではソ連に対する戦争であり、第二に太平洋では日本に対する戦争である」とし、独米英を含む「全キリスト教世界」は、野蛮で東洋的・共産主義的なロシアを共通の敵として戦うべきであるとした。彼はこの考えに沿って連合国とドイツの講和調停を行った。 なお、この工作において「アジアにおけるヨーロッパの権益は完全に回復するべきものである」としており、非キリスト教国である日本の要求は考慮に入れていなかった。また、枢軸国の劣勢が明らかとなった1943年7月28日、アメリカに和平調停を申し出たが、その際には駐スペインアメリカ大使カールトン・J・H・ヘイズ(英語版)に対して「彼ら(日本人)は基本的に蛮族である。彼らは最悪の帝国主義者であり、中国および極東全域の支配をもくろんでいる。フィリピンに独立を保証するという彼らの最近の約束は全く信頼できない。スペインは日本に何らのシンパシーを抱いておらず、もし軍事的に弱体でなければ太平洋戦争において喜んでアメリカと協力したいところである」と述べている。しかし、連合国もドイツもスペインの調停には耳を貸さなかった。 スペインの中立化は隣国のポルトガルのアントニオ・サラザールの影響を大きく受けていたとされ、フランコはサラザールのことを「私が知っている最も尊敬に値する最も完璧な政治家はサラザールだ」とも評していた。 結果としてスペインは、大戦中は「中立国」として振る舞うことにより、自国及び植民地の戦禍を免れたが、その風見鶏的な態度は連合国、特にアメリカに不信感を植え付けることとなった。
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