連合国への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:30 UTC 版)
「戦間期」も参照 クレマンソーは「この条約は、他の条約同様、完全な履行まで戦闘行動の延長でありかつそうでしかありえない」と語ったように、対独強硬路線はフランスの基本路線となり、賠償支払いが停滞したドイツに対するルール占領を引き起こした。しかしこの占領は失敗に終わり、イギリスの仲介もあってフランスも強硬方針を改めざるを得なくなった。1924年には賠償支払い手続きにアメリカを組み込んだドーズ案が決定され、賠償支払いもようやく円滑となった。 1925年にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ドイツの集団安全保障を定めたロカルノ条約の締結によってドイツは国際社会に復帰し、1926年9月には国際連盟にも加盟した。1928年には不戦条約の締結でロカルノ体制は安泰となったかに思われたが、世界恐慌の発生とそれにともなうヨーロッパの不安定化は、英仏に新たな体制構築をせまることとなった。 アメリカにおいても、ウィルソン大統領が唱えた「世界をデモクラシーにとって安全な場所にせねばならない」という標語の下に参加した大戦への疑問が国民全体に広がった。1930年代にはナイ委員会において、戦争の過程でアメリカの銀行と軍需産業が大きな利益を上げたことが取り上げられ、国民の孤立主義的傾向に拍車がかかり、圧倒的大多数のアメリカ国民が、ヨーロッパやアジアにおける戦争にアメリカが関わるべきではないと確信していた。
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