連合国側の会議とは? わかりやすく解説

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連合国側の会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 19:55 UTC 版)

第二次世界大戦の会談・会議」の記事における「連合国側の会議」の解説

連合国側この他にも欧州諮問委員会英語版)等の連絡会議をしばしば行っていた。 名前(コードネーム)場所日時主要な出席者主な討議内容結果米英参謀会談(ABC-1) ワシントンD.C.アメリカ合衆国 1941年1月29日 - 3月27日 アメリカ軍イギリス軍カナダ軍参謀 アメリカ戦争参加することに対す基本同意計画策定 大西洋会談 (RIVIERA) アルゲンティア、ニューファンドランドカナダ 1941年8月9日 - 12日 チャーチルルーズベルト 大西洋憲章策定 第1回モスクワ会談 モスクワソビエト連邦 1941年9月29日 - 10月1日 スターリンハリマンビーバーブルック 連合国ソ連援助決定 第1回ワシントン会談(ARCADIA) ワシントンD.C.アメリカ合衆国 1941年12月22日 - 1942年1月14日 チャーチルルーズベルト ヨーロッパ優先原則連合国共同宣言 第2回ワシントン会談 ワシントンD.C.アメリカ合衆国 1942年6月19日 - 25日 チャーチルルーズベルト イギリス海峡越えて侵攻前に北アフリカ戦線において、第二戦線を作ることを優先することへの合意 第2回モスクワ会談 モスクワソビエト連邦 1942年8月12日 - 17日 チャーチルスターリンハリマン イギリス海峡越えて侵攻北アフリカ戦線開始することの理由議論 シャーシャル会談 シャーシャル(英語版)、アルジェリア 1942年10月21日 - 22日 アメリカクラーク大将ヴィシー・フランスマストを含む士官 トーチ作戦前の秘密会議ヴィシーフランス指揮官ダルラン大将モロッコアルジェリアへの連合国の上陸に抵抗しないことに同意 カサブランカ会談SYMBOLカサブランカモロッコ 1943年1月14日 - 24日 チャーチルルーズベルトド・ゴールジロー イタリア侵攻作戦1944年イギリス海峡渡って侵攻計画の策定枢軸国対す無条件降伏要求宣言フランス戦闘組織自由フランス軍北アフリカヴィシー軍)の統一 第3回ワシントン会談(TRIDENT) ワシントンD.C.アメリカ合衆国 1943年5月12日 - 27日 チャーチルルーズベルト イタリア戦線計画ドイツへ航空攻撃増加太平洋戦線への兵力増強 ケベック会談(QUADRANT) ケベックカナダ 1943年8月17日 - 24日 チャーチルルーズベルトキング D-デイ1944年設定東南アジア指揮系統の再編成、核エネルギー情報の共有制限行ったケベック秘密協定の締結 第3回モスクワ会談英語版モスクワソビエト連邦 1943年10月18日 - 11月1日 ハルイーデンモロトフ モスクワ宣言 カイロ会談SEXTANTカイロエジプト 1943年11月23日 - 26日 チャーチルルーズベルト蔣介石 アジア戦後に関するカイロ宣言 テヘラン会談(EUREKA) テヘランイラン 1943年11月28日 - 12月1日 チャーチルルーズベルトスターリン 三巨頭ビッグ・スリー)による最初会議ドイツとその同盟国との戦争最終的な戦略オーバーロード作戦日程設定 第2回カイロ会談英語版)(SEXTANT) カイロエジプト 1943年12月4日 - 6日 チャーチルルーズベルト、イノニュ 連合国トルコ飛行場利用同意日本支配下ビルマへの侵攻(アナキム作戦)の延期 ブラザヴィル会議フランス語版ブラザヴィルフランス領赤道アフリカ 1944年1月30日 - 2月8日 ド・ゴール、エブエらフランス植民地首脳 ヴィシー政権対す抵抗と、戦後フランス植民地対すフランス連合内での自治権付与 イギリス連邦首相会議 ロンドンイギリス 1944年5月1日 - 16日 チャーチル、カーティン(オーストラリア)、フレイザー英語版)(ニュージーランド)、マッケンジー・キングカナダ)、スマッツ(南アフリカイギリス連邦リーダーモスクワ宣言支持し連合国戦争遂行においてそれぞれ努力行っていくという同意 ブレトン・ウッズ会議 ブレトン・ウッズアメリカ合衆国 1944年7月1日 - 15日 44カ国が参加 国通貨基金国際復興開発銀行創設ブレトン・ウッズ協定ダンバートン・オークス会議 ワシントンD.C.アメリカ合衆国 1944年8月21日 - 29日 39カ国の代表、ステティニアス、カドガン英語版)、グロムイコ 国際連合設立同意 第2回ケベック会談(OCTAGON) ケベックカナダ 1944年9月12日 - 16日 チャーチルルーズベルト 戦後ドイツ占領計画モーゲンソー・プラン協議その他の戦争計画 第4回モスクワ会談英語版)(TOLSTOY) モスクワソビエト連邦 1944年10月9日 チャーチルスターリンモロトフイーデン 東ヨーロッパバルカン戦後勢力範囲定めたパーセンテージ協定締結 マルタ会談(ARGONAUT & CRICKET) マルタ 1945年1月30日 - 2月2日 チャーチルルーズベルト ヤルタ会談向けて準備 ヤルタ会談ARGONAUT & MAGNETOヤルタソビエト連邦 1945年2月4日 - 11日 チャーチルルーズベルトスターリン ドイツ降伏までの最終計画ヨーロッパ戦後計画国際連合会議の日程設定日本へのロシア参戦状況確認 国際機関に関する連合国会議 サンフランシスコアメリカ合衆国 1945年4月25日 - 6月26日 50カ国の参加 国連合憲章 ポツダム会談(TERMINAL) ポツダムドイツ 1945年7月17日 - 8月2日 チャーチルスターリントルーマンアトリー 全日本軍の無条件降伏定めたポツダム宣言ドイツの処理に関すポツダム協定制定 ロンドン会議 ロンドンイギリス 1945年6月26日 - 8月8日 ジャクソンイオナ・ニキチェンコファルコ ニュルンベルク裁判開始決定裁判規定国際軍事裁判所憲章制定 合計で、チャーチル14回の会談に、ルーズベルト12回、スターリンは5回の会談出席した大西洋会議、アルゲンティア基地ニューファンドランド島1941年 カサブランカ会談カサブランカモロッコ1943年 第一次ケベック会談ケベック・シティーカナダ1943年 カイロ会談en)、カイロエジプト1943年 テヘラン会談テヘランイラン1943年 第2次カイロ会談英語版)、カイロエジプト1943年 イギリス連邦首相会議ロンドンイギリス1944年 ヤルタ会談ヤルタソビエト連邦1945年 ポツダム会談ポツダムドイツ、1945年

※この「連合国側の会議」の解説は、「第二次世界大戦の会談・会議」の解説の一部です。
「連合国側の会議」を含む「第二次世界大戦の会談・会議」の記事については、「第二次世界大戦の会談・会議」の概要を参照ください。

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