連合軍によるカダフィ大佐の捜索、及び掃討戦
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「2011年リビア内戦」の記事における「連合軍によるカダフィ大佐の捜索、及び掃討戦」の解説
カダフィ大佐は8月24日、地元メディアのアル・ライ・テレビでメッセージを流し、居住区撤退を「戦術的行動」と主張した。支持者にトリポリ奪還を呼びかけ、徹底抗戦の意思を示した。カダフィ大佐は以降も、不定期にメッセージを放送し続けた。カダフィ派は兵力を中部スルト及びその近郊へ集中させ始め、スルトに向かった反カダフィ軍は足止めを食らった。アブドルジャリルはカダフィ拘束に賞金200万リビア・ディナールをかけた。 25日、カダフィ大佐がアブザリム地区に潜んでいるとの情報が流れ、軍が地区の住居をしらみつぶしに捜索したが、発見には至らなかった。 27日、首都奪還を達成した反カダフィ軍は首都駐在の軍の大半をスルト戦線へ投入した。28日にはスルトを包囲し、現地の部族長と投降にむけた交渉を開始した。30日、「9月3日までに投降しなかった場合は武力行使する」と最終通告を突きつけた。同日カダフィ大佐の七男のハミスが負傷し、夜になって死亡した。遺体は同日中に埋葬されたという。 29日、 アルジェリア政府は、カダフィ大佐の妻のサフィア・長男のムハンマド・五男のハンニバル・長女のアイシャらの入国を、妊娠しているアイシャに対する人道行為の観点から許可したと発表した。アイシャは30日、女児を出産した。評議会は「侵略的行為」だと非難し、身柄の引渡しを求めた。 31日、オベディ外相及びカダフィ側近のアブドラ・アル・ヒジャジが相次いで拘束された。三男のサーディが「身の安全と引き換えに投降したい」と呼びかけ、評議会の関係者と話し合いをもった。 9月1日、評議会は、2日前にイタリアANSA通信が「信頼できる人物」から入手した「カダフィ大佐はバニワリドに潜伏している」と言う情報の信憑性が高いと判断し、スルトの投降期限を3日から10日に延長した。 5日、カダフィ派の大規模な車列が隣国のニジェールに入り、6日には首都のニアメーへ到着した。一行には治安責任者のマンスール・ダウラら政府高官多数が含まれていた。アメリカ政府はニジェール政府に対し、身柄拘束と武器や現金などの押収を求めた。11日にはサーディが入国し、同国への亡命を申請。身柄を確保された後、ニアメーに護送された。ニジェール政府は「リビアで公平な裁判が行われる保証がない」として、送還を拒否した。 6日、評議会は、カダフィ大佐が3日にニジェール国境付近のガート村で目撃されたとの情報が入っていることを明らかにした。翌日には、カダフィ大佐の潜伏先の周囲60キロを包囲したと発表したが、場所は明かさなかった。
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