降伏とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 18:07 UTC 版)
「ダンツィヒ攻囲戦 (1807年)」の記事における「降伏とその影響」の解説
ダンツィヒは1807年5月24日、降伏した。ナポレオンは付近のヴァイクセル要塞の攻囲を命じたが、カメンスキー将軍は指揮下の部隊とともに逃れ、間もなく守備隊は降伏した。この攻囲戦によってフランス軍からは死傷者6,000名が出た一方、プロイセン軍は戦死・負傷と病没によって3,000名を、ロシア軍は1,500名を失っている 。ルフェーヴル元帥の功績に報い、上院に宛てた5月28日付の手紙で彼に「ダンツィヒ公」の称号を許したが、直接伝えることはせず、5月29日に 私は貴官の奉仕にとても満足しており、すでにその証を与えている。それはパリからの最新の知らせを読めば伝わり、疑いなく貴官に対する私の評価を残すものとなるであろう。 と書き送るに留めている。 1807年9月9日、ナポレオンは半独立国、自由都市ダンツィヒを設立した。その領域はグダニスクとして知られるダンツィヒの町、ヴィスワ川の河口の各村、ヘル半島とヴィスワ砂嘴(英語版)の南半分を伴う旧プロイセン王国領から割譲されたものであった。その後、1813年1月下旬から11月29日までロシア軍がこの町を攻囲し、フランスの占領軍は1814年1月2日に撤退する。
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