金国への遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 13:38 UTC 版)
1228年からオゴデイ・ハーンが実施した金遠征には、スブタイも従軍した。 1232年の三峰山の戦いでは、トルイとともに完顔合達・完顔陳和尚らが率いる金の軍隊に勝利を収める。同年4月にスブタイはオゴデイの命令を受け、皇帝の完顔寧甲速が籠る汴京(開封)を包囲する。オゴデイから降伏を勧告された寧甲速はモンゴルに人質を差し出して和約の締結を求めたが、スブタイは和平の締結は自分の関知するところではないと答えて攻撃を続けた。モンゴル軍は投石器を使って城壁の周囲の濠を埋め、楼や櫓を破壊した。しかし、守備隊が使用した火薬兵器の震天雷と飛火槍によってモンゴル軍は城内への侵入を阻まれ、5月に包囲を解いて退却した。 1232年8月に金との和平交渉にあたっていたモンゴルの使節団が金の兵士によって殺害されて講和は決裂し、スブタイは再び汴京の攻撃に取り掛かり、1233年にスブタイは寧甲速が脱出した後の汴京に2度目の包囲を敷いた。城内は食糧と物資の欠乏に見舞われ、金の将軍の崔立によって汴京はモンゴル軍に明け渡された。汴京の陥落前、スブタイは事前に城の攻略に際して自軍の兵士が多く負傷した報復として町で虐殺を行う許可をオゴデイに求めていたが、耶律楚材の制止によって金の帝室の人間のみが虐殺の対象となった。
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