2度目の包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 09:04 UTC 版)
「プシェムィシル包囲戦」の記事における「2度目の包囲」の解説
10月31日、ヒンデンブルクのドイツ第9軍はヴィスワ川の戦いに破れ、ワルシャワへの攻撃を中止した。その結果、スヴェトザル・ボロイェヴィッチの第3軍はサン川のラインまで引き、ヒンデンブルクの提案したポーランド中央部への攻勢を中止した。11月9日、ロシア軍は再度プシェムィシルの包囲を開始した。ドミトリエフの第3軍は前線任務に回され、要塞攻囲は、あらたに予備役兵を主体として編成されたセリバーノフ将軍の第11軍が行うことになった。セリパーノフはドミトリエフとは違い、要塞への正面攻撃を行わず、兵糧攻めを行なう事にした。オーストリア・ハンガリー軍の評価ではプシェムィシルの貯蔵物資は3月中には尽きてしまう見込みだったので、11月から1915年3月の冬の間、プシェムィシルの包囲を解くため、参謀総長コンラート上級大将はカルパティア山脈越えの救出作戦を命じたが、真冬で防衛軍に有利な山岳地形という条件のなか、オーストリア・ハンガリー軍は凍傷と病気で大損害を出した。 1915年2月にボロイェヴィッチは別の救援軍をプシェムィシルへ送ったが、2月の終わりに解囲の望みは潰えた。この頃にはセリバーノフの軍には十分な火砲を装備しており、3月13日には北の防衛線を攻略した。大急ぎで作られた新たな防衛線もロシアの攻撃に晒されたが、その間にロシアに有用な物資を与えないために、都市を破壊するための時間は稼げた。3月19日に、守備隊の内、一万弱は東方約60キロ先の友軍陣地を目指すべく、ほとんど自殺的な包囲突破作戦を行ったが、この動きはロシア軍に察知されており、容易に撃退され、要塞に逃げ帰れたものはわずかだった。もはや物資も望みも尽きたので、守備隊は、要塞内の軍事的な価値のあるものをすべて破壊しつくした後、3月22日、残存する守備隊117,000の兵はロシア軍に降伏した。捕虜の中には9人の将軍と93人の佐官と2,500人の将校がいた。
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