2度目の北西航路航海
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「マーティン・フロビッシャー」の記事における「2度目の北西航路航海」の解説
翌1577年、1回目の航海より大きな船団が組織された。女王は海軍艦船エイド号(Ayde)を新設された「キャセイ会社」(Company of Cathay)に売り、さらに1000ポンドを探検費用として支出した。キャセイ会社は女王からの勅許をうけた勅許会社で、東方以外の全方位への航海の独占権を与えられた。フロビッシャーは、この航海で発見するすべての土地と水面の司令官となることが認められていた。 1577年5月27日、ガブリエル号とマイケル号に加えて大きさ200トンのエイド号が加わった150人の艦隊は、ロンドンのブラックウォールを出航し、スコットランドから北へ向かい7月17日にフロビッシャー湾湾口に到達した。数日後に湾の南岸の一帯は女王の名のもとイングランドによる領有が宣言された。 その後数週間、一行は鉱石集めをして過ごした。フロビッシャーが受けた指示は、第一に金鉱石を集めること、鉱石が見つからなかった場合は船の一部を本国に返して残りの船で北西航路探索に出ることであり、最初の航海の目的であった北西航路発見は後回しであった。イヌイットらとの交渉や軋轢も前回以上に発生し、彼らはイヌイットの男女3人を人質にとってそのままイングランドへと連行した。前年行方不明になった部下の捜索も行われたが、成果はなかった。 彼らは8月23日に出航したが、途中で嵐にあい船団はばらばらになった。船足の早いエイド号が9月23日にウェールズ南部のミルフォード・ヘイブンに到着し、ガブリエルとマイケルはブリストルおよびワイト島北部のヤーマスへと遅れて到着した。 フロビッシャーはウィンザー城で女王に謁見し感謝の言葉を受けた。彼らが持ち帰った200トンもの「金鉱石」を分析するのに、多大な準備と費用がかけられた。その分析には時間がかかり、その間にこの鉱石をめぐって様々な争いが持ち上がった。製錬技術者はこの鉱石の価値を低いものと断じ、キャセイ会社の出資者はそんなことはないはずだと反論し、3度目の航海を企てた。
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