2度目の即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
1451年2月3日にムラトが崩御し、メフメトは父帝の崩御を知らせる使節が現れた時、彼らを喜んで迎えたという。この時、報告を聞いたメフメトは「我を愛する者は後に続け」と叫んで馬にまたがり、エディルネに直行したと伝えられている。同日、エディルネに到着したメフメトは2度目の即位を経験する。 即位に際して幼少の弟アフメトを風呂場で絞殺させ、イェニチェリの忠誠を確保するために賞与を支払った。後継者候補を殺害して内紛を事前に阻止する「兄弟殺し」の慣習は、メフメトの治世から慣例化されたと考えられており、ウラマー(イスラームの法学者)の賛同によって兄弟・甥殺しの法的効力が追認された。 即位の際にハリル・パシャと宰相のイスハク・パシャはオスマンの慣例に反してメフメトの反対の位置に立ったと言われ、メフメトの即位後にイスハク・パシャは地方に左遷される。しかし、帝国の支配者層から支持を受け、強固な地盤を持つハリル・パシャはなおも中央に留まった。 メフメトはハンガリーと3年の休戦協定を結び、東ローマにも友好的な態度を示した。ヨーロッパの国々は停戦を求めるメフメトの消極的な態度を見て安心し、いずれオスマンは内訌で衰退すると考えた。さらにアナトリア半島のカラマン侯国はムラトの死に乗じて和約を破棄し、オスマン領に侵入した。東ローマはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した。メフメトは東ローマの要求を忌々しく思ったが、カラマンの攻撃に対処するために怒りを抑えて東ローマの使者を帰し、アナトリアに渡ってカラマン軍を打ち破った。 そして、第一の目標であるコンスタンティノープルの攻略に着手した。
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