2度目の創設(956年 - 1230年)
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「ブロワ伯」の記事における「2度目の創設(956年 - 1230年)」の解説
ブロワ家が保持 肖像名前在位他の称号説明 ティボー1世詐欺師(910年頃 - 977年) 956年 - 977年 トゥール伯シャルトル伯シャトーダン伯プロヴァン伯シノン領主ソミュール領主 956年以降、ティボーはヴィエルゾン、サンセール、シノン、ソミュール、ボージョンシーおよびプロヴァンなどの周辺の領域を征服した。 ウード1世(950年頃 - 996年) 977年 - 996年 トゥール伯シャルトル伯シャトーダン伯プロヴァン伯ランス伯ボーヴェ伯ドルー伯 ティボー1世とリューガルの次男。兄がノルマンディーで先に死去したため、父より伯位を継承した。ユーグ・カペーの同盟者であったヴァンドーム伯ブシャール1世を攻撃し、ムランを征服した。ドルー伯領を与えられ、王と同盟を結んだ。ウード1世はカロリング家の血を引くベルト・ド・ブルゴーニュと結婚した。 ティボー2世(983年頃 - 1004年7月11日) 996年 - 1004年 トゥール伯シャルトル伯シャトーダン伯プロヴァン伯ランス伯ボーヴェ伯 ウード1世の息子。ティボー2世の統治の大半は、フランス王ロベール2世と再婚した母ベルト・ド・ブルゴーニュが摂政となった。ロベール2世はトゥールをアンジュー伯フルク3世から取り戻したが、ティボー2世は1004年にローマからの帰路で過労のため19歳で死去した。 ウード2世(985年頃 - 1037年11月15日) 1004年 - 1037年 トゥール伯シャルトル伯シャトーダン伯プロヴァン伯ランス伯ボーヴェ伯サンセール伯モー伯トロワ伯\ ティボー2世の弟。近隣の領主全てに戦いを宣言し、ノルマンディー公リシャール2世に持参金(ドルー伯領の半分)を返却するのを拒否した。ウード2世はアンジュー伯フルク3世との戦いを継続し、最終的に勝利をおさめたが、ポンルボイにおいてメーヌ伯エルベール1世(英語版)に敗北した。1022年までに、トロワ伯領およびモー伯領をはとこトロワ伯エティエンヌ1世(英語版)から継承し、ブロワ伯領とシャンパーニュ伯領を統合した。ウード2世はベルト・ド・ブルゴーニュの息子であり、アルル王国の継承権を1032年以降主張したが、5年後にバル=ル=デュックの戦いで戦死した。 ティボー3世(1019年頃 - 1089年9月) 1037年 - 1089年 トゥール伯シャルトル伯シャトーダン伯プロヴァン伯ランス伯ボーヴェ伯サンセール伯モー伯トロワ伯シャトー=ティエリ領主 ウード2世の息子で伯領を継承したが、ティボーはアンリ1世の嫡出性を認めることを拒否した。結果として、1044年のヌイの戦いのあと、アンリ2世はトゥールを取り上げ、同盟を結んでいたジョフロワ・ダンジュー(英語版)に与えた。ティボー3世は甥ウード3世から領地を奪うことでブロワとシャンパーニュを再び統一し、シャンパーニュを独立した伯領とした。ティボー3世は父の敵の娘ガルサンド・ドゥ・メーヌと結婚した。 エティエンヌ2世(1045年頃 - 1102年) 1089年 - 1102年 シャルトル伯シャトーダン伯プロヴァン伯サンセール伯モー伯ランス伯 ティボー3世の長男。イングランド王ウィリアム1世の娘アデル・ド・ノルマンディーと結婚した。妻の影響により、エティエンヌ2世は教皇ウルバヌス2世が提唱した第1回十字軍に呼応した最初の貴族の一人となった。他の貴族と同様、アンティオキア攻囲戦を去ったとき、エティエンヌ2世は支持を失った。しかし、エティエンヌ2世は1102年にラムラの戦いで名誉ある死を遂げた。次男はイングランド王スティーブン(在位:1135年 - 1154年)である。 ティボー4世ティボー大伯(1090/1095年 - 1152年1月10日) 1102年 - 1152年 シャルトル伯シャトーダン伯トロワ伯シャンパーニュ伯サンセール領主 エティエンヌ2世とアデル・ド・ノルマンディーの長男。成人するまで母アデルが摂政となった。ティボー4世は家臣ユーグ3世・ル・ピュイゼの反乱に直面した。叔父シャンパーニュ伯ユーグが聖地へ向かった時に、ティボー4世がシャンパーニュ伯領を継承した。ノルマン貴族がティボー4世にイングランド王およびノルマンディー公となるよう打診してきたが、最終的に弟エティエンヌは1135年にイングランド王となった。代わりに、ティボー4世はシャンパーニュを力のある伯領に成長させ、シャンパーニュの大市を始めた。 ティボー5世(1130年 - 1191年) 1152年 - 1191年 シャルトル伯シャトーダン伯 父ティボー4世が死去した時、父の領地は息子たちの間で分割され、ティボー5世はブロワ伯領を、兄アンリ1世がシャンパーニュ伯領を継承した。ティボー5世はヴァンドームを獲得し、トゥール獲得のための若ヘンリー王の反乱に参加した。ティボー5世はアリックス・ド・フランスと結婚し、フランス王室の一員となった。甥アンリ2世とともに、ティボー5世は第3回十字軍に参加したが、1191年にアッコ包囲戦で戦死した。 ルイ1世(1171年 - 1205年4月14日) 1191年 - 1205年 シャルトル伯シャトーダン伯ニカイア公 ティボー5世の息子で、父より伯領を継承した。クレルモン伯領の女相続人であったカトリーヌと結婚した。ルイ1世も第4回十字軍に参加し、1204年にニカイア公とされた。ルイ1世は翌年4月14日にアドリアノープルの戦いで戦死した。 ティボー6世(1190年 - 1218年) 1205年 - 1218年 シャルトル伯シャトーダン伯クレルモン伯 ルイ1世の唯一の息子。ブロワ伯領およびクレルモン伯領を継承した。スペインへの旅行の途中でハンセン病にかかり、隠遁中の1218年に嗣子なく死去した。ブロワ伯領、シャルトル伯領およびシャトーダン伯領は叔母マルグリットとイザベル(英語版)の間で分割された。 マルグリット(1170年 - 1230年9月) 1218年 - 1230年 シャトーダン女伯 ティボー5世とアリックス・ド・フランスの三女。甥ティボー6世が死去した後、ブロワ伯領とシャトーダン伯領を継承した。夫ゴーティエ2世・ダヴェーヌは妻の権利によりブロワ伯となった。
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