ギオルギ1世_(ジョージア王)とは? わかりやすく解説

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ギオルギ1世 (ジョージア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/11 07:59 UTC 版)

ギオルギ1世
გიორგი I
バシレイオス2世から馬に乗って逃げるギオルギ1世(スキュリツェス年代記より)

ジョージア王
先代 バグラト3世グルジア語版
次代 バグラト4世

出生 996年または998年または1002年または1006年
アブハジアまたはイベリア
死亡 1027年8月16日
ムキンヴァルニグルジア語版トリアレティグルジア語版地方)
埋葬 バグラティ大聖堂
王朝 バグラティオニ朝英語版
父親 バグラト3世グルジア語版
母親 マルタグルジア語版
配偶者 マリアムアルメニア語版
子女
信仰 ジョージア正教会
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ギオルギ1世グルジア語: გიორგი Iグルジア語ラテン翻字: Giorgi I998年または1002年1027年8月16日)は、ジョージア王国の2代目の王である。バグラティオニ朝グルジア語版に属し、1014年から1027年までジョージア王国を統治した。

ギオルギ1世は、父バグラト3世グルジア語版よりもはるかに若くして王位に就いた。そのためギオルギ1世は、貴族たちからカヘティ王国の独立を強要され、最初の敗北を喫した。しかしながらギオルギ1世はすぐに勢力を盛り返し、北コーカサスに多くの臣下を従え、アルメニアでは(一時的であったものの)影響力を拡大した。その一方で、父のバグラト3世の時代から緊張関係が続いていた東ローマ帝国が大きな脅威となった。東ローマ帝国はバシレイオス2世の治世下、ギオルギ1世との紛争を戦い抜くのに十分な力を有していた。そしてこの紛争によってジョージア南部は荒廃し、東ローマ帝国はかつての「ジョージア人の王国」であるタオグルジア語版を併合することにつながった。こうした苦境にもかかわらず、ギオルギ1世は巧みな外交(ファーティマ朝との同盟など)によってジョージア王国の独立を維持した。ギオルギ1世の治世下では、ジョージア王国は他国に臣従することも、貢物を支払うこともほとんどなかった。

生涯

生い立ち

ギオルギ・バグラティオニは998年、もしくは後世の『カルトリ年代記グルジア語版』によれば1002年に生まれたとされる[1]。あるいはキリル・トゥマノフによると、18歳で王位に就いたという事実から、996年または1006年に生まれたとしている[2]。ギオルギ・バグラティオニはおそらく、父バグラト3世[3]の領地であるアブハジアもしくはイベリア(西ジョージア)で生まれた。このときバグラト3世はすでにジョージアの統一事業に着手していた。この統一が正式に完了するのは1010年である。ギオルギはジョージア統一の真の立役者であるダヴィト3世クロパラテス[4]の養孫であり、また「ジョージア人の王」の称号を最後に保持したイベリアのグルゲン1世グルジア語版の血筋でもあった。この二つの家系を継承したギオルギ1世は、1010年以前にジョージア域内の10の国の大部分を統治したバグラティオニ家という、ジョージアの古く高貴な家系の後継者となった。

父バグラト3世は2年に渡る戦争の結果、1010年にカヘティ=ヘレティの王クヴィリケ3世グルジア語版を打ち破り、その領土を併合した。これにより、ジョージアはついに統一された[5]。これによりバグラト3世は、コーカサスで最も強力な君主の一人となった。またバグラト3世は、数年のうちにギャンジャ首長国を臣従させた[6]。ジョージアの年代記によると、アルメニアの土地[7]と北コーカサスのすべてのコーカサス部族を臣従させた[8]。しかし、バグラト3世は4年後の1014年5月7日に崩御した[9]。唯一の息子であり王太子であったギオルギ1世は、当時まだ18歳であった[10]。ギオルギ1世は、クタイシで王位に就いた。

カヘティの喪失

若き新王ギオルギ1世は、父のバグラト3世とは異なり、その若さゆえに政治経験が非常に乏しかった。実際に、18歳のギオルギ1世は複雑な貴族の問題に関する十分な知識を得ていなかった。しかし、この年齢では摂政(あるいは影響力を持つ助言者)を立てることは考えられなかった。なぜなら摂政を立てた場合、ギオルギ1世は貴族間の力関係しか考えない領主たちの傀儡にされてしまう可能性があったためである。このためギオルギ1世は治世初期、貴族たちが起こす問題を防ぐことができなかった。その結果、統一前の旧ジョージアで上流階級にあった貴族たちは、王国に最後に加わり、大きな困難を抱えていた最も不安定な地域であるカヘティ王国を攻撃することを決意した。

歴史のあるカヘティヘレティグルジア語版地方

カルトリ年代記グルジア語版』によって「裏切り者」と称されるアズナウルグルジア語版(領主)たちは、カヘティが独立王国であった時代には裕福な生活を送っていた[10]。しかし1010年、バグラト3世によって西ジョージアに追放された後、ギオルギ1世の権力と国の統一に反旗を翻した[11]。故郷に戻った反乱者はクタイシによって任命された地元のエリスタヴィグルジア語版を捕らえ人質に取り[10]、580年から1010年までのような独立したカヘティ王国の復活を要求した[12]。不意を突かれたギオルギ1世は、反乱した貴族たちの要求に従うしかなかった。この合意により、ギオルギ1世の治世初年からジョージアは領土の3分の1以上を失った。ギオルギ1世は、カヘティ王国の独立を認め、地方主教グルジア語版であったクヴェリケ3世グルジア語版を解放し「カヘティ=ヘレティの王」の称号を与えた。その一方、ギオルギ1世は父の古い称号から「ラン人」と「カフ人」の名前を外すことになり、「アブハズ人とカルトヴェリ人の王」の称号を保持することになった[13]

しかしながら、クヴィリケ3世がジョージアの君主を自認していたとは断言できない。実際、クヴィリケ3世も民衆も、依然としてジョージア正教会に依存しており、事実上独立した主教がアラヴェルディグルジア語版に座しているだけであった。反対の資料もあるが、カフ人は依然としてカルトリ語を使用していた。政治的には、ギオルギ1世の後継者であるバグラト4世の治世以降、クタイシに対する二つの共通の敵、すなわち大コーカサス山脈の反対側に住むアラニア王国オセット語版、そしてギャンジャのイスラム教徒と戦うための同盟を結ぶこととなった[14]。ではなぜ、クヴィリケ3世は同盟国であり、同じ文化圏にあるとみなしていた王国の領土の3分の1を奪う必要があったのだろうか。真の理由は不明である。歴史家のノダル・アサティアニは、このカヘティ=カルトリの問題を説明すると思われる二つの説を提唱している。一つは、若いギオルギ1世がカヘティ王国の貴族と協定を結び、カヘティ王国の外交的孤立を利用してアラヴェルディと同盟を組んだという説。もう一つは、東ローマ帝国による侵略と荒廃から避けるため、ギオルギ1世がクヴィリケ3世にジョージアの地域を進んで譲り渡したという説である。二つ目の説の場合、マリー=フェリシテ・ブロッセグルジア語版によって語られた歴史は歪曲されている可能性がある。なぜなら、その書籍の一次資料はタマル女王の治世中に、女王の祖先のイメージを貶めないようプロパガンダとして書かれたためである。

コーカサスにおけるジョージアの影響力

カヘティを失う前のジョージア王国(1010–1014年)

1014年にバグラト3世が崩御したとき、ジョージアは「コーカサスにおける第一の強国」と称されるに至った。しかし実際には、この称号を主張できる者はほとんどいなかった。北方では、自らを「国家」とみなしていた遊牧民の部族や民族はすべて、統一ジョージアの最初の支配者の宗主権下に入っていた。ただしアラニア王国オセット語版など一部は、事実上クタイシの支配から逃れていた[8]。東部ではカヘティ=ヘレティ王国もギャンジャ首長国(貢納は継続していた)もジョージアと敵対していなかったが、カヘティ=ヘレティは同盟国として扱われ、ギャンジャは真の属国であった。これにより、ジョージア周辺で同等の軍事力を有する国は、南にあるアルメニア王国のみとなった。

シャーハンシャー・ガギク1世アルメニア語版は、989年からアルメニア王国を統治した。アルメニア国内および国外の年代記はガギク1世について、この地域において強大な権力を持つ王として描写しており、ダヴィト3世クロパラテスに比肩する実力者であったとしている。しかしガギク1世はその30年後の1020年[14]に崩御した。ガギク1世は、自らの領地が後世に確実に強大に残ると信じていた[15]。だがガギク1世の長男で後継者と目されていたホヴハンネス=スムバト3世アルメニア語版は、父の期待にほとんど応えられなかった[16]。これによりガギク1世の次男で「勇敢なる者」と呼ばれたアショト4世アルメニア語版は怒りを示した。アショト4世は反乱を起こし、ほとんど武力を使うことなく、1021年にアルメニア北東部に小規模な独立王国を築いた。この対立は東ローマ帝国の介入を招く危険性があったことから、ヴァスプラカン王国アルメニア語版の王セネケリム=ホヴハンネスアルメニア語版は、内紛を避けるために両兄弟の間の仲裁役を務める巧妙な決断を下した。しかし、ここでも新たな提案は出されず、セネケリム=ホヴハンネスがアルメニアにおける第一人者としてとどまった。

ここでギオルギ1世がアルメニア域内の対立に介入した。ギオルギ1世はセネケリム=ホヴハンネスに代わって、問題の真の解決策を提案した。ギオルギ1世は仲裁役となり、ガギク1世のアルメニアを分割する案を示した。この結果、アニの地域をホヴハンネス=スムバト3世が支配し、ジョージアとアッバース朝の間に位置する地域をアショト4世が統治することとした[16]。だが、ある些細な事件により、この合意は破られることとなった。歴史家アリスタケス・ラストヴェルツィアルメニア語版によると、ホヴハンネス=スムバト3世がアニに向かう道中で、弟アショト4世の領地である「チャタク」で一夜を明かした。これを知ったアショト4世は激怒したと記している。アショト4世はギオルギ1世に使節を送り、ギオルギ1世はアショト4世を「助ける」こととした[17]。ギオルギ1世は直ちにアニまで進軍し、抵抗に遭うことなく街を占領、略奪し、破壊した。その後、ガギク1世の正当な後継者であるホヴハンネス=スムバト3世に忠誠を誓っていた貴族たちが寝返り、ホヴハンネス=スムバト3世をギオルギ1世に引き渡した。ギオルギ1世は、複数の要塞およびアニの臣従を引き換えに、ホヴハンネス=スムバト3世を解放した[16]。これにより、ジョージアはコーカサスにおける主導的な地位を獲得した。しかし、ギオルギ1世はこれだけでは満足しなかった。ギオルギ1世は称号だけでなく、領土も望んでいた。ギオルギ1世は東ジョージアの喪失から立ち直り、より大きな敵に立ち向かう準備を整えた。

バシレイオス2世とギオルギ1世

まだ若く、数少ない自身の功績に誇りを持っていたギオルギ1世は、東ローマ帝国とのかつての緊張関係を再燃させることを決意した。東ローマ帝国は、遅くともユスティニアヌス1世の治世(527年–565年)以来、コーカサス地域で覇権主義的な動きを見せていた。さらにギオルギ1世は、ジョージア統一を試みた王の後継者を自認していたが、カヘティとヘレティを喪失したことをきっかけに、南西部に新たな領土を求めるようになった[18]。具体的には、ギオルギ1世はタオグルジア語版の地域を狙った。タオは、かつてのジョージア人の王国であり、初期のバグラティオニ家の世襲領地であった。タオの地域はダヴィト3世クロパラテスが支配していたが、ダヴィト3世が反逆者バルダス・フォカスギリシア語版を支援した罰として、遺言により東ローマ皇帝バシレイオス2世に譲り渡されていた。そして、そのタオの一部は東ローマ帝国からバグラト3世に与えられた。

1000年以降、バシレイオス2世はブルガリアと全面戦争状態にあり、ジョージアを気にする余裕はほとんどなかった。そのため、ギオルギ1世は1015年から1016年にかけて、係争中の領土に初めて侵略した。これに対する皇帝バシレイオス2世からの直接的な軍事的反応はなかった。だが、歴史家アリスタケス・ラストヴェルツィアルメニア語版は、バシレイオス2世とギオルギ1世の間で交わされた書簡の内容を記している。その書簡では、次のように述べられている。

  • —クロパラテスが遺した、私が汝の父に与えた遺産を放棄し、汝自身の領地を治めることで満足せよ。
  • —我が父王が所有していたものは、一軒たりとも誰にも譲るつもりはない。[19]

ギオルギ1世の拒否を受けた後、皇帝バシレイオス2世はブルガリアでの戦況が厳しいにもかかわらず直接介入した。しかし、東ローマ帝国の主敵であるファーティマ朝(東ローマ帝国が992年から995年まで戦争をしていた相手)とジョージアの同盟が再締結されたことにより、東ローマ帝国の軍隊は一度撃退された[20]。1018年、ブルガリアが東ローマ帝国の武力に完全に屈服し、ブルガリア皇帝プレシアン2世ブルガリア語版は廃位され、ブルガリアは東ローマ帝国の属州となった[21]。その後まもなく、ファーティマ朝のカリフハーキムが崩御し、息子のザーヒルが跡を継いだ。ザーヒルは経験不足であり、ジョージアの情勢を考慮する余裕を持っていなかった。これにより、ギオルギ1世は再び国際的な枠組みの中で孤立の状況に陥り、バシレイオス2世はギオルギ1世に向けて全軍を派遣した[20]。両軍はタオにあるバシアニ平原グルジア語版で遭遇したが、ギオルギ1世は撤退し、東ローマ軍の進路を逸そらすためにオルティシグルジア語版の街を焼き払った。しかしながら、コラの地で東ローマ軍に追いつかれた[22]。そして、そこからほど近いシリムニグルジア語版の村で、ジョージアの後衛部隊が東ローマ帝国の前衛部隊に攻撃された。その結果、1021年9月11日に激しい戦闘が起こった。これにより、当時のジョージアの主要な将軍たちが戦死した。バシレイオス2世自身も戦場の中心におり、辛うじて東ローマ軍が勝利した[23]。ジョージア軍は急いでこの地域から撤退し、サムツヘグルジア語版に避難したが、東ローマ軍はさらに追撃し、アルタアニの町を焼き払った[24]

キエフ大公ヤロスラフ1世は、ジョージアと戦うためにバシレイオス2世に軍隊を提供した。

その後、追撃戦が展開された。サムツヘで敵軍の接近を察したギオルギ1世は、トリアレティグルジア語版へと移動した。ギオルギ1世は東ローマ帝国の兵士たちが到着するまで時間を稼き、その間にカヘティ=ヘレティや大コーカサスから兵士を集めて陣営を増強した[25]。バシレイオス2世は一旦退却し、アルタアニに冬季駐屯した。この期間、バシレイオス2世は報復としてアルタアニ周辺地域を荒廃させた。その後、バシレイオス2世は東ローマ帝国領内のトレビゾンド近郊に陣地を築いた。そして、ジョージアの属国であったアルメニアのホヴハンネス=スムバト3世アルメニア語版の臣従を受け入れ、ジョージアと最初の交渉が試みられた。この同じ時期、セルジューク朝の脅威に晒されていたヴァスプラカン王国アルメニア語版の王セネケリム=ホヴハンネスアルメニア語版によって、ヴァスプラカンは東ローマ帝国に割譲された[26]。この結果、ジョージアは包囲された状況に陥り、最後の手段として東ローマ帝国の内政に介入する手段を取った。

実際に1022年、アナトリアの戦略家ニケフォロス・クシフィアスギリシア語版は、かつての反逆者バルダス・フォカスギリシア語版の息子である同名のニケフォロス・フォカスと手を組み、皇帝バシレイオス2世に対して反乱を起こした[27]。この反乱の表向きの理由は、両ニケフォロスが南コーカサス遠征に指揮官として招集されなかったためである。だが、実際の反乱の扇動者はジョージアのギオルギ1世であり、東ローマ帝国の将軍たちの嫉妬を利用して反乱を起こさせた[28]。シリムニでの敗北からちょうど一年後の1022年9月11日、反乱軍たちはバシレイオス2世によって完全に打ち破られ、コンスタンティノープルに連行された[29]。皇帝バシレイオス2世は反乱の背後に誰がいるかを理解し、再びジョージアの君主に敵対した。この結果、ギオルギ1世は強制的に和平を受け入れざるを得なくなった。

その後、ギオルギ1世はクルデカリ公ズヴィアド・リパリティスゼグルジア語版に多数の部隊をつけた上で、バシレイオス2世と会談させるために東ローマ帝国に派遣した。そして1022年から1023年の冬にかけて、再びタオを占領する機会を獲得した。野心高いジョージアの貴族たちの助言に従い、ギオルギ1世は東ローマ軍を攻撃するよう命じた。ギオルギ1世はバシアニ平原で軍に合流し、激しい戦闘を繰り広げた[30]。東ローマ側のギリシャ人部隊は敗北したが、キエフ大公国から派遣された大隊は戦闘を続け、ついにジョージア軍を完全に打ち破った。この戦いで、ジョージア軍の多数の貴族や兵士が命を落とした[31]。その後、和平交渉が再開され、最終的にバシレイオス2世とギオルギ1世の間で条約が締結された。この条約の条項に基づき、ギオルギ1世の長男である3歳の幼い王子バグラトが、人質として3年間コンスタンティノープルに送られることになった[32]。ジョージアはまた、14の要塞とダヴィト3世クロパラテスの領土に対するすべての主張を放棄しなければならなかった[31]。ジョージアはタオグルジア語版ジャヴァヘティグルジア語版シャヴシェティグルジア語版バシアニ平原グルジア語版、そしてアルタアニコラの街を失うことになった[33]。こうして、第一次ビザンツ=ジョージア戦争グルジア語版は東ローマ帝国の勝利に終わった。

治世の終わりと死

戦争終結から2年後の1025年12月15日、東ローマ皇帝バシレイオス2世が崩御した。帝位はバシレイオス2世の弟コンスタンティノス8世が継承した。ちょうどその頃、王太子バグラトコンスタンティノープルに留まることになっていた3年の期間が満了した時期であった。しかし、コンスタンティノス8世はこれを認めず、すでにジョージア領内に帰国していた幼いバグラト王子(当時6歳)を連れ戻すよう、テマ・イベリアギリシア語版総督であるニキータに命じた[20]。ニキータは力ずくでバグラト王子を奪い返そうとした。だが、それはすでに手遅れであった。未来の王を守るために、戦闘の準備を整えたジョージアの大軍がニキータの前に立ちはだかったためである[10]

その後、全ジョージアのカトリコス総主教であるメルキセデク1世グルジア語版が自らコンスタンティノープルに赴き、会談を行った。これが、戦争が終結して初めて東ローマ帝国とジョージアが行った会談と見なされている[10]。この会談でメルキセデク1世は、ジョージアの東ローマ帝国に対する大使として、タオにあるザドヴァレキグルジア語版村、オロタトルコ語版村、そして名称不明の村一つを購入した。またシャヴシェティグルジア語版地方のナグヴァレヴィトルコ語版村と、ジャヴァヘティグルジア語版地方のトントロ村、コラ地方のオロタニグルジア語版村、パナヴァリグルジア語版地方のマハロヴァニグルジア語版村、サコエティグルジア語版地方のナカラケヴィグルジア語版ベルダゾニグルジア語版も買い取った。これらの土地はすべて、後にジョージア正教会に与えられた[10]

そのさらに2年後の1027年8月16日、ギオルギ1世は移動途中にトリアレティグルジア語版地方のムキンヴァルニグルジア語版村(別名イツロニ (იწრონი) またはヴィロニ (იწრონი))で崩御した。ギオルギ1世の遺体はクタイシに運ばれ、バグラティ大聖堂に埋葬された。『カルトリ年代記グルジア語版』によると、ギオルギ1世の治世は、すべての資質において先祖たちを凌駕していたとされ、国全体がギオルギ1世の死を悼んだことを記している。当時7歳であったギオルギ1世の息子は、バグラト4世としてジョージア王に即位した。

遺産

スヴェティツホヴェリ大聖堂グルジア語版

ギオルギ1世が後世に残した遺産は、功罪相半ばするものであった。ギオルギ1世は領土の3分の1を貴族たちの手に渡した一方、外交面では父バグラト3世グルジア語版をはるかに凌駕した。ギオルギ1世は、最大の敵であったカヘティ王クヴィリケ3世グルジア語版を忠実な同盟者に変えることに成功し、後の戦役での支援につなげた。さらには、隣国アルメニアの内政を掌握し、同盟を締結して東ローマ帝国による最初の侵攻を回避した。しかし東ローマ帝国は危険を顧みず、1021年から1023年にかけてジョージア南西部に侵攻した。遠い子孫である18世紀の歴史家ヴァフシティ・バグラティオニはギオルギ1世を崇拝し、『カルトリ年代記グルジア語版』で次の賛辞を捧げている。

「[...] ギオルギ王は、あらゆる資質に満ち溢れたまま、若くして亡くなった。彼の先祖の中で、精力、英雄性、寛大さ、容姿端麗、そして統治の手腕において、彼に匹敵する者はいなかった。彼は死去し [...] 領地のすべての民に深い悲しみを残し、誰もが彼の優しさ、英雄性、勇敢さを嘆き悲しんだ。」

今日、ギオルギ1世の治世の痕跡はほとんど残っていない。今日まで残っている痕跡としては、スヴェティツホヴェリ大聖堂グルジア語版を建設したことが挙げられる。4世紀イベリアの支配者ミリアン3世グルジア語版と王妃ナナグルジア語版の保護下で建てられた古い木造教会の跡地に、ギオルギ1世はスヴェティツホヴェリ大聖堂を建設した。これによりギオルギ1世の治世以降、ジョージアのほとんどの王は、かつての行政首都であり、現在でもジョージアの宗教首都となっているムツヘタで戴冠している。実際、スヴェティツホヴェリ大聖堂は、2004年にトビリシ至聖三者大聖堂へと移転するまでは、全ジョージアのカトリコス総主教の座所であった。

結婚と子孫

ギオルギ1世はアルメニア問題でジョージアと同盟を結んだヴァスプラカン王国アルメニア語版の王セネケリム=ホヴハンネスアルメニア語版の末娘マリアムアルメニア語版と結婚した。文献によると、この結婚は1018年、夫妻の第一子が誕生する前に成立した。夫妻には4人の子供がいた(ただし娘3人の母親がマリアムであるかは史料から確定できない)[34]

その後、アラニア王国オセット語版の王女アルダと2度目の結婚をしたとされる[35]。しかしながらこの結婚の真偽は定かではない。それは、マリアム王妃との離婚がジョージアの史料に一切記載されていないためである。その一方で、東ローマ帝国やジョージアの著述家はアルダをギオルギ1世の「妻」と呼んでいる。『カルトリ年代記グルジア語版』によれば、王子バグラトがコンスタンティノープルから帰国した1026年の時点で、ギオルギ1世とマリアムはまだ結ばれていなかったと記されている。したがって、アラニア王国がジョージアの属国であったことを考慮すると、アルダはギオルギ1世の妾に過ぎなかった可能性が高い[34]。いずれにせよ、この関係から1人の息子が生まれたことは確実である。

  • デメトレグルジア語版 - 王位を2度簒奪(1035年–1040年、1047年–1053年)

注釈

  1. ^ Mikaberidze 2015, p. 330.
  2. ^ Selon le fait que Georges Ier est devenu roi à l'âge de 18 ans. Selon Toumanoff, Cyril (1990). Les dynasties de la Caucasie chrétienne de l'Antiquité jusqu'au XIXe siècle. Tables généalogiques et chronologiques. Rome , il naît en 1006.
  3. ^ Foundation for Medieval Genealogy. “Georgia — Gurgen I of Kartli”. 2009年7月27日閲覧..
  4. ^ Grousset 1995, p. 516.
  5. ^ Marie-Félicité Brosset, Histoire de la Géorgie, de l'Antiquité au XIXe siècle, Saint-Pétersbourg, 1848-1858, p. 299.
  6. ^ Grousset 1995, p. 537.
  7. ^ Marie Félicité Brosset, op. cit., p. 301, et note 1.
  8. ^ a b David Mouskhelichvili, Atlas de l'Histoire de la Géorgie, Tbilissi, 2003, p. 20.
  9. ^ Marie-Félicité Brosset, op. cit., p. 302.
  10. ^ a b c d e f Marie-Félicité Brosset, op. cit., p. 310.
  11. ^ Marie-Félicité Brosset, op. cit, p. 299.
  12. ^ La Kakhétie avait accédé une première fois à l'indépendance en 580, quand le royaume d'Ibérie fut aboli par la Perse.
  13. ^ Nodar Assatiani et Otar Janelidze, History of Georgia, Tbilissi, 2009, p. 176.
  14. ^ Marie-Félicité Brosset, Histoire du Héreth du Coukheth et du Cakheth, p. 142.
  15. ^ Samuel d'Ani le fait mourir en 470 de l'ère arménienne (16 mars 1021-15 mars 1022) mais Marie-Félicité Brosset rectifie son calcul et propose 1020.
  16. ^ a b Aristakès Lastivertsi, Concernant le royaume arménien.
  17. ^ Marie-Félicité Brosset, Histoire de la Géorgie : Additions et éclaircissements, Additions XI : « Récits des auteurs géorgiens sur le règne de Giorgi Ier ».
  18. ^ Ivane Djavakhichvili, Histoire de la Géorgie du XIe au XVe siècle, Tbilissi, 1949, p. 10.
  19. ^ Kalistrat Salia, Histoire de la nation géorgienne, Paris, 1980, p. 158.
  20. ^ a b c Kalistrat Salia, op. cit., p. 159.
  21. ^ Jean Skylitzès, Synopsis historiarum, p. 203.
  22. ^ Ivane Djavakhichvili, op. cit., p. 10.
  23. ^ Marie-Félicité Brosset, Histoire de la Géorgie : additions et éclaircissements, Additions XI.
  24. ^ Grousset, René (1949). Payot (ed.). L'Empire du Levant : Histoire de la Question d'Orient. Bibliothèque historique (フランス語). Paris. p. 153. ISBN 978-2-228-12530-7.{{cite book2}}: CS1メンテナンス: publisherのないlocation (カテゴリ).
  25. ^ Marie-Félicité Brosset, Histoire de la Géorgie de l'Antiquité au XIXe siècle, p. 307.
  26. ^ Gérard Dédéyan, Histoire du peuple arménien, Privat, Toulouse, 2007, p. 279.
  27. ^ Jean Skylitzès, Historia.
  28. ^ Ivane Djavakhichvili, op. cit., p. 11.
  29. ^ Gustave Schlumberger, L’Épopée byzantine à la fin du Xe siècle.
  30. ^ Marie-Félicité Brosset, op. cit., p. 308.
  31. ^ a b Marie-Félicité Brosset, op. cit., p. 309.
  32. ^ Ivane Javakhichvili, op. cit., p. 12.
  33. ^ Assatiani, Nodar; Bendianachvili, Alexandre (1997), l'Harmattan, ed., Histoire de la Géorgie, Paris, p. 335, ISBN 2-7384-6186-7, http://www.librairiehistoire.com/pays/georgie/histoire_de_la_georgie_.asp .
  34. ^ a b Foundation for Medieval Genealogy. “Georgia — Giorgi I of Georgia”. 2009年7月28日閲覧..
  35. ^ a b Toumanoff, Cyril (1990). Les dynasties de la Caucasie chrétienne de l'Antiquité jusqu'au XIXe siècle. Tables généalogiques et chronologiques. Rome .

関連項目

参考文献

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