グランドゥフティ (ギオルギ1世の娘)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/02 01:20 UTC 版)
グランドゥフティ გურანდუხტი |
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王朝 | バグラティオニ朝 |
父親 | ギオルギ1世 |
母親 | マリアム |
配偶者 | スムバト |
グランドゥフティ(グルジア語: გურანდუხტი、グルジア語ラテン翻字: Gurandukhti、1072年以前没)は、ジョージア王ギオルギ1世と、最初の王妃マリアムの娘である。グランドゥフティは兄バグラト4世の治世下でジョージアの政治に積極的に関与した[1]。
政治活動
1050年代、クルデカリ公リパリト4世の反乱により、バグラト4世はビザンツの宮廷に追放された。このとき、グランドゥフティは幼い息子ギオルギ2世の「庇護者」(パトロン)となった。ギオルギ2世は、父バグラトがコンスタンティノープルに不在の間に、国王として即位した。グランドゥフティはビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスに対し、バグラト4世をジョージアに帰国させるよう要求した[1]。その後、リパリト4世が失脚すると、グランドゥフティはバグラト4世の権威回復に尽力した[2]。
結婚と家族
ジョージアの年代記『カルトリ・ツホヴレバ』の一つ「カルトリ年代記」によると、グランドゥフティはロリ王キュリケ2世の弟スムバトと結婚した。1064年、セルジューク朝のスルタン・アルプ・アルスラーンがジョージアに侵攻した。バグラト4世は和平協定の一環として、グランドゥフティの娘をアルプ・アルスラーンに嫁がせることを計画した。しかし、グランドゥフティの義兄であるロリ王キュリケ2世の同意を得られなかった。その後の紛争で、キュリケ2世はバグラト4世の配下によって捕らえられ、要塞都市サムシヴィルデをバグラト4世に明け渡すことを余儀なくされた。最終的に、グランドゥフティの娘はアルプ・アルスラーンと結婚した[2]。その後、グランドゥフティの娘はセルジューク朝のワズィール(宰相)で学者でもあったニザーム・アル=ムルクと再婚し、後の宰相となるアフマドをもうけた[3]。グランドゥフティの娘がどのような経緯でニザームの後宮に入ったかは明らかになっていない[4]。
参考文献
- ^ a b Garland, Lynda & Rapp, Stephen (2006), "Mary 'of Alania': Woman and Empress Between Two Worlds", p. 120. In: Garland, Lynda (ed., 2006), Byzantine Women: Varieties of Experience, 800-1200. Ashgate Publishing, ISBN 0-7546-5737-X.
- ^ a b Thomson, Robert W. (1996), Rewriting Caucasian History, pp. 296-299. Oxford University Press, ISBN 0-19-826373-2
- ^
Bosworth, C. E., Encyclopaedia Iranica, Vol. I, Fasc. 6, pp. 642–643. “AḤMAD B. NEẒĀM-AL-MOLK”. 2025年9月2日閲覧.
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: CS1メンテナンス: 数字を含む名前/author (カテゴリ) CS1メンテナンス: 複数の名前/author (カテゴリ) - ^ Lambton, Ann K. S. (1988), Continuity and change in medieval Persia, p. 302. SUNY Press, ISBN 0-88706-133-8.
外部リンク
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