ギオルギ1世 (イメレティ王)とは? わかりやすく解説

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ギオルギ1世 (イメレティ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 07:13 UTC 版)

ギオルギ1世
გიორგი I

イメレティ王
在位期間
1389年1392年
先代 アレクサンドレ1世
次代 コンスタンティネ2世

出生 14世紀
死亡 1392年
サメグレログルジア語版
王室 バグラティオニ家グルジア語版
父親 バグラト1世
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ギオルギ1世(ギオルギ1せい、グルジア語: გიორგი Iグルジア語ラテン翻字: Giorgi I1392年没)は、イメレティ王国グルジア語版の王(在位期間1389年–1392年)。

生涯

ギオルギはイメレティ公バグラト1世の子として誕生。母親はサムツヘ公国グルジア語版ジャケリ家グルジア語版クヴァルクヴァレ1世グルジア語版の娘であった。1389年、兄アレクサンドレの死去により、後を継いでイメレティ王に就任。兄アレクサンドレはティムールのジョージア侵攻グルジア語版の際にジョージア王バグラト5世グルジア語版と対立し、自らをイメレティ王と宣言していた。ギオルギは兄アレクサンドレと異なり、イメレティにおける権力の強化に成功した。

ギオルギがイメレティ王になった直後は、クタイシを含めイメレティ地方の要塞の多くが、ジョージア王バグラト5世の支配下・庇護下にあった。グリアグルジア語版オディシグルジア語版をはじめとする各地の領主はバグラト5世の味方であり、ギオルギによる統治を認めていなかった。ギオルギは、ジョージア王バグラト5世の支配下・庇護下にあった数多くの要塞を確保することに成功し、1390年には支持者のアルセニをアブハジアのカトリコスに就任させることで、教会に対する封建支配の足場も確立した。

1392年、ギオルギは軍を率いて、ヴァメク1世グルジア語版を領主とするサメグレロ公国の征服を目指した。しかしながらギオルギは壊滅的な敗北を喫し、戦場にて戦死した。その後、サメグレロ公ヴァメク1世の誘引によりジョージア王バグラト5世の息子ギオルギ7世がイメレティを占領し、ジョージア王国を再統一した。ギオルギの弟コンスタンティネと甥デメトレは、バルカル人が居住する北コーカサスへと避難した[1][2]

参考文献

注釈

  1. ^ Bagrationi, Vakhushti (1976). Nakashidze, N.T.. ed (Russian). [History of the Kingdom of Georgia]. Tbilisi: Metsniereba. p. 41. https://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/3067 
  2. ^ Toumanoff, Cyril (1949–51). “The Fifteenth-Century Bagratids and the Institution of Collegial Sovereignty in Georgia”. Traditio 7: 183. 

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