コンスタンティネ2世_(イメレティ王)とは? わかりやすく解説

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コンスタンティネ2世 (イメレティ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 07:01 UTC 版)

コンスタンティネ2世
კონსტანტინე II

イメレティ王
在位期間
1396年1401年
先代 ギオルギ1世
次代 デメトレ1世

出生 14世紀
死亡 1392年
チャラガン英語版
王室 バグラティオニ家グルジア語版
父親 バグラト1世
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コンスタンティネ2世(コンスタンティネ2せい、グルジア語: კონსტანტინე IIグルジア語ラテン翻字: Konstantine II1401年没)は、イメレティ王国グルジア語版の王(在位期間1396年–1401年)。

生涯

コンスタンティネはイメレティ公バグラト1世の子として誕生。母親はサムツヘ公国グルジア語版ジャケリ家グルジア語版クヴァルクヴァレ1世グルジア語版の娘であった。

長兄アレクサンドレティムールのジョージア侵攻グルジア語版の際にサカルトヴェロ王国から離脱してイメレティ王となり、長兄アレクサンドレの死後は次兄ギオルギが後継となった。1392年に次兄ギオルギがサメグレロ公ヴァメク1世グルジア語版との戦いで戦死すると、コンスタンティネは甥デメトレとともにコーカサス山脈に逃れた。イメレティはジョージア王ギオルギ7世によって占領され、ジョージア王国は再統一された[1]

コンスタンティネは1396年、ジョージア王ギオルギ7世とティムールとの間の継続的な戦争によって数多のイメレティ人が死亡したこと、またサメグレロ公ヴァメク1世グルジア語版の死を利用して、イメレティに戻った。コンスタンティネはイメレティの多くの要塞を奪取し、自身をイメレティ王と宣言した。その後、サメグレロ公国グリア公国グルジア語版スヴァネティ公国グルジア語版の打破を目指したが、1401年にチャラガンの戦いでサメグレロ公マミア2世グルジア語版に敗れ、戦死した。コンスタンティネには子供がおらず、イメレティ王の座は甥デメトレに委ねられた。しかしながらデメトレは若く弱かったため、イメレティは間もなくジョージア王ギオルギ7世によって再統治された[1][2]

参考文献




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