アフシャール朝からガージャール朝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:52 UTC 版)
「サファヴィー朝」の記事における「アフシャール朝からガージャール朝へ」の解説
ナーディルはナーディル・シャーと称してアフシャール朝を開いたが、ナーディルの死後ペルシアは群雄割拠状態となった。 1750年にカリーム・ハーンはサファヴィー朝の生き残りであるイスマーイール3世(ドイツ語版)を擁立してザンド朝を興し、ペルシア統一を進めたが、1773年にイスマーイール3世が死去した頃には既にカリーム・ハーンがザンド朝の支配者となっていたため、以後サファヴィー朝の王子は擁立されなかった。 1779年にザンド朝のカリーム・ハーンが死ぬと、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーが台頭し、1794年にモハンマドが勝利を飾り、ペルシアはガージャール朝が統治することになった。
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