中世スコットランドの社会と文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:39 UTC 版)
「スコットランドの歴史」の記事における「中世スコットランドの社会と文化」の解説
マクベスをはじめスコットランドの支配者の多くがローマに巡礼したが、その後スコットランドはキリスト教世界との結びつきを強めていった。支配者層にとってキリスト教の庇護はステイタスであった。教会組織がととのえられ、各地に修道院がつくられた。またフランス・イングランド・フランドルなどから移民が流入し、その文化や社会制度が取り入れられてヨーロッパ的封建社会が形成されていった。 先進的文化をもった移民の流入は、スコットランド社会の変貌も促した。ゲール語は次第に公用語としての地位を失い、支配者層は英語・フランス語を用いた。ウィリアム・ウォレスの姓「ウォレス」もウェールズ系のものであった。 先進地域の文化が導入されるいっぽうで、古来の制度も生き残った。タニストリーがその代表的な例であるが、より民衆に直結したのは動員制度だった。中世ヨーロッパの戦争は傭兵によるもので、兵士の出身国と所属国が異なることが通常であったが、スコットランドは戦争が起きた際に、支配権にもとづきスコットランド人を動員した。これは比較的「安価」な戦力確保を実現し、また屈強で知られるハイランド人の動員も可能にした。圧倒的な国力をもったイングランドに対抗できた一因は、この動員制度であった。 ヨーロッパ文化と既存の文化の混在は、スコットランド内の分離も促す結果となった。ハイランドとローランドは文化の違いが顕在化しはじめ、氏族が統治するハイランドへの「野蛮」なイメージが形成されつつあった。
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