中世フランス語から現代フランス語とは? わかりやすく解説

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中世フランス語から現代フランス語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 22:48 UTC 版)

フランス語史」の記事における「中世フランス語から現代フランス語」の解説

中世フランス語」も参照 1300年頃までについては、さまざまなオイル諸語まとめて古フランス語(ancien français)として扱うことがある現存するフランス語最古文章842年ストラスブールの誓約である。古フランス語シャルルマーニュ騎士十字軍英雄を詠った武勲詩成立とともに文語となっていった。 行政機関として初めフランス語公用語として採用したのはイタリア北西部ヴァッレ・ダオスタで、1536年のことであったが、これはフランスによるフランス語公用語化に3年先立つものである。1539年ヴィレル=コトレ勅令フランソワ1世フランス語行政宮廷用い公用語とし、それ以前用いられていたラテン語追放した公的機関用いるべき標準語として使用強制されたことと、曲用体系失ったことをもってオイル語この方言は古フランス語区別される中世フランス語(moyen français)とされている。1550年にはフランス語文法について最初に記述したルイ・メグレ(フランス語版)のTretté de la Grammaire française出版されている。現代フランス語700語を数える、美術scenariopiano)・嗜好品食品などを表すイタリア語起源語彙がこの時期持ち込まれた。 16世紀始まった統一化規範化・純化が行われた後の、17世紀から18世紀にかけてのフランス語古典フランス語français classique)とすることがあるが、17世紀以降現代までフランス語を単に現代フランス語français moderne)とすることも多い。 1634年リシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズ創設されフランス語純化維持目的とする公的機関誕生した定員40名のアカデミー・フランセーズ会員les immortels (不死者)として知られている。この二つ名は、ときおりそう誤解されることがあるものの、アカデミー会員任期終身であることに由来するではなく(ただし会員任期実際に終身であるが)、リシュリュー定めたアカデミー紋章に À l'immortalité ([フランス語の]不滅[のため]に)と記されていることによる今日においても、アカデミー・フランセーズ健在であり、フランス語監視外来語外来表現置き換え寄与している。そうした置き換え最近の例には、software対する logiciel、packet-boat対する paquebot、riding-coat対すredingote などがある。ただし computer対する ordinateur はアカデミーによる造語ではなくIBM依頼受けた言語学者の手になるものであるこの間経緯fr:ordinateur を参照のこと)。 17世紀から19世紀にかけては、フランス欧州屈指の大国であったため、啓蒙思想影響力相俟ってフランス語欧州知識階級リンガ・フランカとなり、特に美術文学外交分野崇敬受けたプロイセンフリードリヒ2世ロシアエカチェリーナ2世などはただフランス語会話読み書きができただけでなく、たいへん長じていた。ロシアドイツ諸国スカンジナビア諸国宮廷でも公用語ないし主要言語としてフランス語用いられ自民族の言語農民言語みなされ退けられた。 17世紀と18世紀には、フランス語南北アメリカ大陸において自らの占め位置恒久的なものとした。ヌーヴェル・フランス北米フランス領)の入植者がどの程度フランス語を話すことができたかについては学術上議論が存在する入植者のうち、おそらくフランス語話したであろうパリ地方出身者全体15%に満たず(なお女性入植者25%パリ地方出身であり、多くが「王の娘であった男性入植者のうちパリ地方出身者は5%)、それ以外入植者おおむね標準フランス語母語としないフランス北西部西部出身であった。これらの入植者のどれだけが第2言語としてフランス語理解できたかはよくわかっておらず、また彼らの圧倒的多数オイル諸語いずれか母語としていたが、フランス語第2言語として習得してない場合に、フランス語オイル諸語類似からどの程度までフランス語話者意思疎通ができたかもはっきりとはわかっていない。いずれにせよフランスからの入植者グループのすべてが言語的に統一されたことが(この過程フランス本土大西洋航路上、カナダ上陸後のいずれにおけるものであったかはともかく)多数史料から徴されその結果17世紀末には当時の全「カナダ人」が母語としてフランス語(王のフランス語)を話したが、これはフランス本土言語的統一達成されるよりはるかに早いのであるカナダにおけるフランス語パリにおけるものと同じくらい良いフランス語であるというのがかつての定評であった。現在、南北アメリカ大陸におけるフランス語話者数は約1000万人を数えるが、これにはフランス語系のクレオール諸語全体同じく1000万ほどの話者人口を持つ)は含まないアカデミー・フランセーズ創設公教育普及、数世紀にわたる政府による管理メディアの発達によって、統一され公用語としてのフランス語堅固なものへと作りあげられてきたが、今日でもアクセント語彙における地域差大量に残存している。フランス語の「一番良い発音トゥーレーヌ広義パリ盆地南西部トゥール擁する)のものであろうという評があるが、このような価値判断問題満ちており、近代化以降人々次第特定の地域一生過ごさないようになっていったこと、全国メディア重要性増していったことに由来している。個々の「地域的アクセント将来うなっていくのか多く予見しがたい1789年フランス革命ナポレオン帝国の後に成立した国民国家としてのフランスは、もっぱらフランス語使用させることを通じてフランス人統合した。このことについて英国の歴史エリック・ホブズボームは、「フランス語は、「フランス」という概念本質といえるものであり、にもかかわらず1789年にはフランス人50%はまったフランス語を話すことができず、「まともに話せたのは1213%でしかなかった。実際のところ、オイル語圏でさえも、中心的地域の外では都市部除いてふつうフランス語話されておらず、その都市部でも、郊外(faubourgs)では常に話されていたわけではなかった。北仏でも南仏同様に、ほとんど誰もフランス語など話さなかった」と述べている。ホブズボームは、ナポレオンによって導入され徴兵制と、1880年代公教育法(フランス語版)の果たした役割強調している。両者フランス多様な集団混ぜ合わせナショナリズム鋳型へと流し込むことで、各人が共通の国家一員であるという意識をもったフランス国民作りあげたが、一方でさまざまなパトワ方言少数言語)はどんどん根絶されていった

※この「中世フランス語から現代フランス語」の解説は、「フランス語史」の解説の一部です。
「中世フランス語から現代フランス語」を含む「フランス語史」の記事については、「フランス語史」の概要を参照ください。

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