中世フランス語から現代フランス語
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「フランス語史」の記事における「中世フランス語から現代フランス語」の解説
「中世フランス語」も参照 1300年頃までについては、さまざまなオイル諸語をまとめて古フランス語(ancien français)として扱うことがある。現存するフランス語最古の文章は842年のストラスブールの誓約である。古フランス語はシャルルマーニュの騎士や十字軍の英雄を詠った武勲詩の成立とともに文語となっていった。 行政機関として初めてフランス語を公用語として採用したのはイタリア北西部のヴァッレ・ダオスタで、1536年のことであったが、これはフランスによるフランス語公用語化に3年先立つものである。1539年のヴィレル=コトレ勅令でフランソワ1世はフランス語を行政と宮廷で用いる公用語とし、それ以前に用いられていたラテン語を追放した。公的機関で用いるべき標準語として使用を強制されたことと、曲用体系を失ったことをもって、オイル語のこの方言は古フランス語と区別される中世フランス語(moyen français)とされている。1550年にはフランス語文法について最初に記述したルイ・メグレ(フランス語版)のTretté de la Grammaire françaiseが出版されている。現代フランス語で700語を数える、美術(scenario、piano)・嗜好品・食品などを表すイタリア語起源の語彙がこの時期に持ち込まれた。 16世紀に始まった統一化・規範化・純化が行われた後の、17世紀から18世紀にかけてのフランス語を古典フランス語(français classique)とすることがあるが、17世紀以降現代までのフランス語を単に現代フランス語(français moderne)とすることも多い。 1634年にリシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズが創設され、フランス語の純化と維持を目的とする公的機関が誕生した。定員40名のアカデミー・フランセーズ会員は les immortels (不死者)として知られている。この二つ名は、ときおりそう誤解されることがあるものの、アカデミー会員の任期が終身であることに由来するのではなく(ただし会員の任期は実際に終身であるが)、リシュリューの定めたアカデミーの紋章に À l'immortalité ([フランス語の]不滅[のため]に)と記されていることによる。今日においても、アカデミー・フランセーズは健在であり、フランス語の監視と外来語・外来表現の置き換えに寄与している。そうした置き換えの最近の例には、software に対する logiciel、packet-boat に対する paquebot、riding-coat に対する redingote などがある。ただし computer に対する ordinateur はアカデミーによる造語ではなく、IBMの依頼を受けた言語学者の手になるものである(この間の経緯は fr:ordinateur を参照のこと)。 17世紀から19世紀にかけては、フランスは欧州屈指の大国であったため、啓蒙思想の影響力も相俟ってフランス語は欧州の知識階級のリンガ・フランカとなり、特に美術、文学、外交分野で崇敬を受けた。プロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカチェリーナ2世などはただフランス語で会話や読み書きができただけでなく、たいへん長じていた。ロシアやドイツ諸国、スカンジナビア諸国の宮廷でも公用語ないし主要言語としてフランス語が用いられ、自民族の言語は農民の言語とみなされ退けられた。 17世紀と18世紀には、フランス語は南北アメリカ大陸において自らの占める位置を恒久的なものとした。ヌーヴェル・フランス(北米のフランス領)の入植者がどの程度フランス語を話すことができたかについては学術上議論が存在する。入植者のうち、おそらくフランス語を話したであろうパリ地方出身者は全体の15%に満たず(なお女性入植者の25%はパリ地方出身であり、多くが「王の娘」であった。男性入植者のうちパリ地方出身者は5%)、それ以外の入植者はおおむね、標準フランス語を母語としないフランス北西部・西部の出身であった。これらの入植者のどれだけが第2言語としてフランス語を理解できたかはよくわかっておらず、また彼らの圧倒的多数はオイル諸語のいずれかを母語としていたが、フランス語を第2言語として習得していない場合に、フランス語とオイル諸語の類似からどの程度までフランス語話者と意思疎通ができたかもはっきりとはわかっていない。いずれにせよ、フランスからの入植者グループのすべてが言語的に統一されたことが(この過程がフランス本土、大西洋航路上、カナダ上陸後のいずれにおけるものであったかはともかく)多数の史料から徴され、その結果17世紀末には当時の全「カナダ人」が母語としてフランス語(王のフランス語)を話したが、これはフランス本土の言語的統一が達成されるよりはるかに早いものである。カナダにおけるフランス語はパリにおけるものと同じくらい良いフランス語であるというのがかつての定評であった。現在、南北アメリカ大陸におけるフランス語の話者数は約1000万人を数えるが、これにはフランス語系のクレオール諸語(全体で同じく1000万ほどの話者人口を持つ)は含まない。 アカデミー・フランセーズの創設や公教育の普及、数世紀にわたる政府による管理、メディアの発達によって、統一された公用語としてのフランス語は堅固なものへと作りあげられてきたが、今日でもアクセントや語彙における地域差は大量に残存している。フランス語の「一番良い」発音はトゥーレーヌ(広義のパリ盆地南西部でトゥールを擁する)のものであろうという評があるが、このような価値判断は問題に満ちており、近代化以降人々が次第に特定の地域で一生を過ごさないようになっていったこと、全国メディアが重要性を増していったことに由来している。個々の「地域的」アクセントが将来どうなっていくのか多くは予見しがたい。1789年のフランス革命とナポレオン帝国の後に成立した、国民国家としてのフランスは、もっぱらフランス語を使用させることを通じてフランス人を統合した。このことについて英国の歴史家エリック・ホブズボームは、「フランス語は、「フランス」という概念の本質といえるものであり、にもかかわらず、1789年にはフランス人の50%はまったくフランス語を話すことができず、「まともに」話せたのは12~13%でしかなかった。実際のところ、オイル語圏でさえも、中心的地域の外では都市部を除いてふつうフランス語は話されておらず、その都市部でも、郊外(faubourgs)では常に話されていたわけではなかった。北仏でも南仏同様に、ほとんど誰もフランス語など話さなかった」と述べている。ホブズボームは、ナポレオンによって導入された徴兵制と、1880年代の公教育法(フランス語版)の果たした役割を強調している。両者はフランスの多様な集団を混ぜ合わせナショナリズムの鋳型へと流し込むことで、各人が共通の国家の一員であるという意識をもったフランス国民を作りあげたが、一方でさまざまなパトワ(方言や少数言語)はどんどん根絶されていった。
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