動員制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
普仏戦争勃発時、462,000人のドイツ軍が完璧にフランスの前線に送り込まれた一方、フランス軍は270,000人しか前線に送り込めなかった。フランス軍では、ずさんな計画と管理のために、まだ一発の銃弾も発射されない内から、既に100,000人の兵を活用できない状態になっていた。その理由の一部は平時の軍の編制にある。プロイセン軍の各軍団は「クライス」(Kreis。文字通り訳すと「円」)内の主要都市周辺に基地があり、連隊基地へ行くのに1日以上旅行せねばならない場所に住んでいる予備役兵はほとんどいなかった。対して、フランス軍の平時における最大の集合単位を「連隊」とし駐屯地を二年ごとに移動していた。これは革命が相次ぎ、軍が反乱軍となるのを恐れた帝国政府が軍を民衆から隔離しようとしたためだった。従って連隊は自らの兵を徴募する地域には駐屯していなかった。このため応召兵はまず数日旅行して所属連隊の補給処に出頭して、それから更に長旅を経て所属連隊の駐屯地へ向わなければならないということがしばしばあった。鉄道駅は多くの応召兵で埋め尽くされ、無為に軍糧と命令を待つばかりであった。実際に戦争開始時において歩兵100個連隊中65個連隊が補給厰から遠く離れた駐屯地にいた。 こうした平時の編制の違いが、戦争前の準備の違いによって更に際立たせられた。プロイセン参謀本部は、鉄道網を活用した分刻みの動員計画を用意しており、しかもその鉄道網の一部は参謀本部鉄道課の勧告に従って敷設されたものであった。一方、フランスの鉄道網は、複数の民間鉄道事業者が競争する中で、純粋に商業的な理由により敷設され発展してきたもので、アルザス=ロレーヌの前線に向かう移動は、多くの場合、大幅な迂回や頻繁な乗り換えを必要とした。更に、軍が列車を統制する仕組みが全くなく、将校が適当だと考えた列車を単純に徴用して使っていた。操車場は兵を載せた貨車で埋め尽くされて身動きが取れなくなり、兵を下車させたり、正しい目的地へ出発させたりする事について責任を負う者は誰もいなかった。
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