出自の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:43 UTC 版)
『川越市史』3 近世編583頁には「康英は松井家分知松井信濃守康功の子として天保元年(1830年)に生まれ、同じく分知で旗本五千石寄合席松井軍次郎康済の嫡子となり(後略)」と記述されており、この記述は諸書にも継承されている。理由は恐らく、同じ『川越市史』史料編 近世1の727頁掲載の康英の履歴書(明治元年作成)「分知松井信濃守康功亡養父松井軍次郎康済嫡子」の記述を「実父は分知松井信濃守康功」「養父は松井軍次郎康済」というように分けて解釈したからであろう。 しかし、これは完全な誤読である。なぜなら康英の養子康載の履歴書(明治元年作成)が隣に掲載されているが、それと比較をすれば一目瞭然で、康載の履歴書には「戸田丹波守光則隠居尤香斎光庸六男」とある。冒頭の戸田丹波守光則とは康載の履歴書を作成した明治元年当時の実家の当主(光則は康載の兄である)で、康載は光則の先代である光庸の六男と解釈しなくてはならない。これと同じ方法で康英の履歴書を解釈すると、松井信濃守康功はこの履歴書が作成された明治元年当時の康英の実家の当主を指し、康英の実父ではないことになる。だから、実父は松平(松井)康済が正しい。 ちなみに康功の実父は幕臣3000石阿部遠江守正蔵で、康功の兄には陸奥白河藩主阿部正定や後に老中となった阿部正外などがいる。 参考までに原文の解釈を掲載しておく。 原文「分知松井信濃守康功亡養父松井軍次郎康済嫡子」 訳 「分家松井康功の養子先の養父である松井康済の長男」 原文「戸田丹波守光則隠居尤香斎光庸六男」 訳 「戸田光則の先代当主である光庸の六男」
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