出自をめぐる問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 02:38 UTC 版)
「国分氏 (陸奥国)」の記事における「出自をめぐる問題」の解説
国分胤通が陸奥国の国分荘を得たことを記すもっとも古い史料は元禄16年(1703年)成立の『伊達正統世次考』である。陸奥国の国分氏に関する系図はこれと同じく、平氏の流れをくむ千葉介常胤の五男、国分胤通が奥州藤原氏討滅時の戦功により宮城郡国分荘を賜ったことを起源とするといい、『封内風土記』など地誌類の記述も同じである。系図の一つ、佐久間義和が編集した「平姓国分系図」は、胤通が郷六に築城したと伝える。古内氏所蔵の「平姓国分系図」も胤通を祖とするが、二つの系図には胤通の次から戦国時代の宗政の前まで、一致する人名がない。また、下総国の国分氏に伝わる系図と比べても、『吾妻鏡』に出てくるような公知の箇所を除けば一致点がない。系譜の途中で血統の入れ替えがあったためではないかと推測する説もあるが、諸系図の信頼性は低いと言わざるをえない。 戦国時代に書かれた留守氏の重要史料『奥州余目記録』は、長沼氏の一族である僧が、有能なため婿養子になったのが国分氏だと述べている。それによれば、小山氏、白河氏、登米氏、八幡氏、国分氏は一族だという。小山氏・白河氏は藤原秀郷の子孫であって、平姓千葉氏系ではない。同時代史料として、室町時代の神社の棟札に国分氏の分かれである郷六氏が建立の記録を残しており、そこに現れる国分氏は藤原朝臣で長沼を称している。 これと別に、佐久間「平姓国分系図」には長沼氏でなく結城氏が国分氏の養子に入って国分胤親になったとする箇所がある。「古内氏系図」にも「結城朝光十二世国分治郎宗弘」と見える。結城朝光は結城氏の祖である。江戸時代の地誌には、結城七郎が南北朝時代に小泉城にいたとか、茂ヶ崎城にいたとか、あるいは杭城を落としたとあり、結城氏の活動が知られる。 以上をふまえて出される諸説には、まず鎌倉時代に国分胤通を祖とする国分氏が陸奥国にいたという説と、胤通との関係を否定して単に不明とする説がある。ついで、南北朝時代以降の国分氏について、長沼氏系とする説と、結城氏系であるとする説がある。平姓国分氏がそのまま続いたとする説はない。
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