出自・三遠山について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 11:51 UTC 版)
藤原利仁流の加藤景廉を祖とする美濃遠山氏は、景廉が遠山荘の地頭となり、その子景朝が在地に下りて岩村に居を構えたことに始まる。遠山氏は氏族繁衍して七流に分かれて恵那郡を領したが、これを遠山七頭(七遠山)と言う。また中でも三頭(三遠山)と言われた苗木・明知・岩村の3つが主要な分家で、景朝の子、景重が明知遠山氏の祖、景員が岩村遠山氏の祖にあたるが、苗木は何度か系譜が絶えている。 鎌倉時代初期においては、美濃源氏たる土岐氏と源頼朝の側近の子孫たる遠山氏は並び立っていたが、南北朝時代には土岐頼遠が活躍して美濃国の守護職を得たこともあって、土岐氏の方が優位となった。遠山氏も武家方の一勢力として各地を転戦したり、宮方であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが、『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主加藤光直の弟で苗木城主であった遠山五郎景直は土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。足利尊氏に従って各地を転戦した明知遠山氏の(景重の玄孫)景房は武功多く、市島郷の地頭職を与えられたが、元中7年(1390年)その子である頼景は、宗家の持景の養子となって遠山氏の惣領として遠山荘の地頭職を安堵とされている。 頼景の子が景友(季友)、孫が景前(かげまえ)である。景前の頃には土岐氏は凋落し、東美濃では遠山七頭の国衆が台頭して、諸城を築いて郡外勢力を拒むようになった。岩村遠山氏は惣領格ではあったが、統一されておらず、美濃の動乱の煽りで明確な支配者のいない半独立状態となっていた。
※この「出自・三遠山について」の解説は、「遠山景任」の解説の一部です。
「出自・三遠山について」を含む「遠山景任」の記事については、「遠山景任」の概要を参照ください。
- 出自・三遠山についてのページへのリンク