出自・名称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 13:22 UTC 版)
出自に関しては『立入左京亮宗継入道隆佐記』には「大坂にて川那う左衛門尉と申す娘」とあり、「川那う」が名字で「川那部」の誤記ではないかとされ、石山本願寺に仕えた川那部氏の娘と考えられる。母親は田井源介の娘。荒木村重は当初、摂津池田城主・池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となっていたため、村重の正室は池田長正の娘となるが、だしは天正7年(1579年)の時点で21歳または24歳とされており、年齢的に村重と20歳以上離れており、継室または側室であった可能性が高い。村重の嫡子・村次は正室に明智光秀の娘を迎えているため、年齢的にだしの子では無い事は明らかである。有岡城落城時に2歳であったという岩佐又兵衛は、年齢的にはだしの子である可能性があるが、不明である。 また呼称のだしの由来については『立入左京亮宗継入道隆佐記』によると、城郭の出し(出丸、出城)に居住していたゆえの命名らしく、本名は「ちよほ」(一説には「梶」)である。 一方でダシというキリスト教の受洗名(Daxi)であり、この女性はキリシタンであったという説もあるが[信頼性要検証]、東京大学名誉教授の辻惟雄は、だしが処刑される時に残した数多くの歌の中には、阿弥陀と西方浄土への憧れを詠んだものがあることからキリシタン説には疑問があるとしている。
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