出自・城下士とは? わかりやすく解説

出自・城下士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:08 UTC 版)

桐野利秋」の記事における「出自・城下士」の解説

天保9年1838年12月2日鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)で城下士の中村右衛門桐野兼秋)の第三子として生まれる。5人兄姉弟妹で、上から兄・与左衛門邦秋、姉(夭折)、半次郎利秋、弟・山ノ内左衛門種国(山ノ内家の養子となる。西南戦争従軍)、妹(島津斉彬近侍していた伊東才蔵嫁ぐ伊東才蔵西南戦争戦死)の順。 別府晋介母方従弟肝付兼行男爵とは姻戚関係にあり、兼行実父・兼武は、利秋戦死後残された家族後見するとともに伝記著した。 妻は帖佐小右衛門鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の次女ヒサ戸籍上、利秋に実子がなく、死後明治11年ヒサ家督相続し明治18年実弟長男山ノ内栄熊が養子入籍している。 家系坂上苅田麻呂坂上田村麻呂の父)に起こると称し安土桃山時代島津義久家老平田増宗暗殺した押川強兵衛道案内をした桐野九郎左衛門尉末裔という。 10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島流罪処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄を助けていたが、18歳のときに兄の病没後は小作開墾畑で家計支えた二才(にせ=若者15歳頃から24歳頃)時代石見半兵衛決闘申し込まれ、それを論難して以来石見属す上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交結んだ因みに、この郷中には、寺田屋騒動鎮撫使となった奈良原繁抵抗して死んだ弟子丸龍助など、精忠組の士が多くいた。半次郎がもっと親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという。

※この「出自・城下士」の解説は、「桐野利秋」の解説の一部です。
「出自・城下士」を含む「桐野利秋」の記事については、「桐野利秋」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「出自・城下士」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「出自・城下士」の関連用語

出自・城下士のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



出自・城下士のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桐野利秋 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS