出自・城下士
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天保9年(1838年)12月2日、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。5人兄姉弟妹で、上から兄・与左衛門邦秋、姉(夭折)、半次郎利秋、弟・山ノ内半左衛門種国(山ノ内家の養子となる。西南戦争に従軍)、妹(島津斉彬に近侍していた伊東才蔵に嫁ぐ。伊東才蔵も西南戦争で戦死)の順。 別府晋介は母方の従弟。肝付兼行男爵とは姻戚関係にあり、兼行の実父・兼武は、利秋戦死後、残された家族を後見するとともに、伝記 を著した。 妻は帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の次女、ヒサ。戸籍上、利秋には実子がなく、死後、明治11年にヒサが家督を相続し、明治18年に実弟の長男・山ノ内栄熊が養子入籍している。 家系は坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)に起こると称し、安土桃山時代、島津義久の家老・平田増宗を暗殺した押川強兵衛の道案内をした桐野九郎左衛門尉の末裔という。 10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄を助けていたが、18歳のときに兄の病没後は小作や開墾畑で家計を支えた。二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋騒動の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など、精忠組の士が多くいた。半次郎がもっとも親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという。
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