出自を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 20:46 UTC 版)
既述の通り、『記紀』によれば先代の武烈天皇に後嗣がなかったため越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされる。『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来るが(右図参照)、この特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。 西條勉は、継体を応神の5世孫とする伝承は古く、大宝継嗣令に基づく潤色とみるよりも、かえって継嗣令の方こそが大王系譜からの規制を被っているとみなければならないとし、すでに記紀の形態をとっていたとは考えられないが、少なくとも原応神〜武烈・手白香姫命の間を6世代とする系図はすでに固定されていて、それに合わせて継体の出自が造作されたとした。 黛弘道は、 『上宮記』の文章は、記紀以後に述作されたというような新しいものでないことは、その用字法からして明瞭であり、用字法はどうしても時代の趨勢に拘束されるため、後から古めかして造るのは技術的にかなり難しく、用字法からいえば、継体天皇の世系は記紀編纂以前から『上宮記』やその原文によって判明していたと考えることができる。 記紀が継体の系図を記さなかったのは、 天皇の五世孫という疎遠な皇親が皇統を継承した例はないから、ここは五世代を克明に挙げる煩を避けたためである。 『日本書紀』に系図一巻が添えられた事実を忘れてはならず、継体天皇の世系は必ずこの系図の中に示されたに違いないのであり、上宮記はむしろその参考に供された資料とみるべきであると主張した。 市瀬雅之は、『日本書紀』継体紀において、継体は大伴金村や許勢男人などの豪族によって即位を望まれ、河内馬飼荒籠に進言されて樟葉宮入りを果たしており、重ねて乞われる形で天皇に即位していることから、継体の即位や大和入りを阻む存在がいたと考えることは難しいとしている。
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